表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/129

勝者の食卓

 謝罪使節が去った翌日、鳳凰領は静かだった。


 交渉も、使節の応対も、官糧停止の宣言も——すべてが過ぎ去り、鳳凰領にはいつもの日常が戻っていた。農夫たちが田畑に出て、商人が荷車を引き、子供たちが路地を走り回っている。


 麗華は午前の領務を終え、自室に戻った。


 書斎と寝室を兼ねた小さな部屋だ。窓際の卓に帳簿が積まれ、壁には鳳凰領の地図が掛けられている。窓からは領地の田畑が一望でき、稲穂の波が午後の風に揺れていた。


 麗華は窓辺の椅子に座り、一人で茶を淹れた。


 碧螺春へきらしゅん。鳳凰領の最上の茶だ。自分で湯を沸かし、温度を見極め、茶葉を急須に入れ、ゆっくりと湯を注ぐ。後宮仕込みの所作は、一人きりの部屋でも変わらなかった。


 茶碗に注いだ碧螺春は、澄んだ翡翠色をしていた。朝の光に透かすと薄い緑が美しく、青い香りが鼻に届く。


 一口、飲んだ。


 旨い。


 旨いのだが——今日は、味を感じる前に考え事が先に来た。


 復位を断った。朝廷に三つの条件を突きつけた。官糧を完全に止めた。使節が帝都に戻れば、朝廷は動かざるを得ない。皇帝は条件を検討するだろう。趙文昌は抵抗するだろう。朝廷の内部で綱引きが始まる。


(ここまでは、計算通り)


 麗華は茶碗を両手で包んだ。


 廃妃の日から、すべてを計算してきた。官糧の段階的な削減。市糧の維持。使節への対応。交渉の決裂。完全停止。謝罪使節への復位拒否。一手一手、盤上の石を置くように。


(——勝った。少なくとも、この局面では)


 朝廷は食糧を必要としている。鳳凰領だけが穀物を生産できる。この構造がある限り、麗華の立場は揺るがない。復位を断り、条件を突きつけたことで、麗華は「皇帝の女」ではなく「対等な交渉者」として朝廷の前に立った。


 これが、望んでいたことだ。


 ——本当に?


 扉が叩かれた。


「お嬢様。春蘭でございます」


「入って」


 柳春蘭が静かに入室した。手に小さな盆を持っている。


「お疲れのところ失礼いたします。甘味をお持ちしました」


 盆の上に、小さな皿が二つ。なつめの蜜煮と、桂花けいかの杏仁豆腐。どちらも麗華の好物だ。


「ありがとう。一緒に食べましょう」


 春蘭が向かい側の椅子に座った。主従が同じ卓で食べるのは、後宮ではあり得ないことだ。だが鳳凰領では、いつからかそれが日常になっていた。


 麗華は棗の蜜煮を一つ口に入れた。干し棗を蜜で煮含めた素朴な甘味だ。棗の果肉が舌の上で崩れ、濃い蜜の甘さが口に広がる。甘い。だが甘すぎない。鳳凰領の棗は糖度が高く、蜜を控えめにしても十分な甘さが出る。


「お嬢様」


「何?」


「お嬢様の勝利ですね」


 春蘭の声は淡々としていた。だがその目には、長年仕えてきた主人への敬意と、微かな誇りがあった。


「朝廷が謝罪使節を送り、復位を提案した。それをお嬢様は断り、条件を突きつけた。廃妃にされた女が、朝廷を跪かせた。——これが勝利でなくて何ですか」


 麗華は杏仁豆腐を匙ですくい、口に運んだ。桂花の甘い香りが鼻を抜ける。


「勝利?」


 麗華は呟いた。


 匙を皿に戻し、窓の外を見た。午後の陽光が田畑を照らしている。稲穂が黄金色に輝き、風が吹くたびに波のように揺れている。豊かな光景だ。鳳凰領は変わらず美しい。


「春蘭。勝利とは、何かしら」


「お嬢様?」


「朝廷を困らせた。皇帝に謝罪させた。復位を蹴って、条件を突きつけた。——確かに、盤面ではわたくしが優位よ」


 麗華は茶碗を手に取った。碧螺春の香りが立つ。


「でも、帝都の官吏たちは粥と漬物で暮らしている。宮廷の食堂は雑穀飯よ。禁軍の兵糧も底が見えている。——わたくしが穀物を止めたから」


「それは朝廷の自業自得です」


「ええ、自業自得よ。でも」


 麗華は茶を一口飲んだ。


「食糧を武器にしている自分が——食を何より大切にしているはずの自分が——誰かの食卓を貧しくしていることに、少しだけ」


 言葉が途切れた。


 春蘭は黙って待った。


「……いいの。今は、これが必要だから」


 麗華は微笑んだ。だがその微笑みには、いつもの鋭さがなかった。


 春蘭は何も言わなかった。何年も仕えてきた侍女頭には分かっていた。この人は——勝っても、素直に喜べない人なのだ。食糧を武器にする自分と、食で人を生かしたい自分の間で、いつも何かを抱え込んでいる。


「お嬢様」


「何?」


「棗の蜜煮、もう一つ召し上がりませんか。甘いものは考え事に効きます」


 麗華は——笑った。


 今度は、本物の笑みだった。


「そうね。もう一つもらうわ」


 棗を口に入れた。甘かった。鳳凰領の棗の、嘘のない甘さ。


 窓の外では、夕暮れが近づいていた。


 西の空が茜色に染まり始め、田畑の稲穂が金色から朱色に変わっていく。炊飯の煙がいくつも立ち上り、夕餉の匂いが風に乗ってきた。鳳凰領の夕暮れは、いつも何かが炊かれ、蒸され、煮込まれている。


 麗華は碧螺春の最後の一口を飲み干した。


 茶碗を卓に置き、窓の外の鳳凰領を見つめた。田畑。家々の煙。遠くに見える山並み。この土地が、自分の場所だ。


「春蘭」


「はい」


「これからが始まりよ」


 春蘭は頷いた。


「朝廷が条件を呑むか、突っぱねるか。趙文昌がどう動くか。蘇家が何を企むか。——まだ何も終わっていない。最初の一手を打っただけよ」


 麗華は立ち上がった。


 窓際に立ち、鳳凰領を見下ろした。


 夕日が麗華の横顔を照らしていた。琥珀色の瞳が、夕陽を受けて金色に光る。


(帝都の食卓が寂しいのは、わたくしのせいではない。わたくしを捨てた人たちのせいよ)


 それは、自分に言い聞かせる言葉だった。


(でも——いつか、帝都の食卓にも鳳凰米が戻る日が来るかもしれない。そのときは、武器ではなく、ただの食事として)


 その「いつか」は遠い。まだ見えない。だが——見えないからこそ、ここから歩き始められる。


 麗華は窓を離れ、書斎の卓に向かった。帳簿を開き、筆を取った。鳳凰領の次の季節の作付け計画だ。穀物の種類、量、配分。民間流通の調整。地養術の施術計画。


 やるべきことは山ほどある。


 勝利の余韻に浸っている暇はない。


 鳳凰領の夕暮れに、炊飯の煙が昇っていた。麗華の私室から筆の音が漏れ、春蘭が静かに茶器を片づけていた。


 どこかで、暁風が巡回から戻る馬の蹄の音がした。


 鳳凰領は変わらず豊かで、穏やかで、食の匂いに満ちていた。


 だがその穏やかさの中に——嵐の予感がある。朝廷と鳳家の戦いは、まだ始まったばかりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ