復位の拒絶
翌朝。
鳳家屋敷の客間に、朝の光が差し込んでいた。
卓の両側に、鳳麗華と陳秉文が向かい合って座っていた。春蘭が控え、暁風が部屋の隅に立っている。
卓の上には茶器が置かれていた。碧螺春の新茶。朝一番に麗華が自分で淹れた茶だ。
「陳大人。一晩お待たせして申し訳ありません」
「いいえ。昨夜は久方ぶりに安らかに眠れました。鳳凰領の空気は帝都とは違いますな」
陳秉文は穏やかに笑った。だがその目は、麗華の次の言葉を待って真剣だった。
麗華は茶碗を手に取った。一口飲み、碗を卓に置いた。
「復位は、お断りします」
陳秉文の目が見開かれた。
「鳳麗華どの——」
「陛下のお言葉はありがたく頂戴いたしました。廃妃の不当性を認め、謝罪してくださったこと。それは——正直に申し上げれば、驚きました」
麗華は両手を膝の上に置いた。指先は穏やかに揃えられ、震えはなかった。
「ですが、復位はお受けできません」
「しかし——それでは、朝廷は何をもって鳳家との関係を回復すればよいのですか。名誉回復を——」
「名誉は、復位しなくても回復できます。弾劾の撤回と、廃妃の不当性の公式宣言。それで十分です」
陳秉文は眉を寄せた。
「復位をお断りになる理由を、お聞かせいただけますか」
麗華は微笑んだ。
「後宮には、もう戻りません。鳳凰領がわたくしの場所です」
静かな声だった。だがその声には、一年分の覚悟が凝縮されていた。
「貴妃という位は、陛下の女としての地位です。わたくしが求めているのは、陛下の女に戻ることではありません」
「では、何を——」
「鳳凰領の自治権の拡大。これが第一の条件です」
麗華は指を一本立てた。
「鳳凰領は瑛朝の食糧の七割を生産しています。この土地の安定は国家の安定そのものです。にもかかわらず、朝廷の一方的な詔で当主を廃妃にし、領地経営を脅かすことができる——この構造自体が問題です」
「自治権の拡大とは、具体的にどの程度を——」
「税制の自主決定権。官吏の任免権。軍事以外の内政の自己決裁権。——詳細は文書で提出いたします」
陳秉文の表情が厳しくなった。それは事実上の独立に近い要求だ。
「第二の条件」
麗華は二本目の指を立てた。
「弾劾の撤回と、廃妃の不当性の公式宣言。これは陛下がすでにお認めくださったことですから、形式の問題です。朝廷の公文書として発布し、各地の領主に通達してください」
「それは——実行可能かと思います」
「第三の条件」
三本目の指。
「地養術の管理権は鳳家に帰属する。朝廷は地養術に対するいかなる干渉も行わない。——ただし」
麗華は一拍置いた。
「鳳家は地養術による穀物生産を継続し、民間流通を通じた食糧供給を維持します。民を飢えさせることは、わたくしの本意ではありませんから」
陳秉文は沈黙した。
三つの条件。前回の交渉でも提示されたものだが、今回は文脈が違う。朝廷が謝罪した上で、麗華が復位を断り、条件を突きつけている。立場が完全に逆転していた。
「鳳麗華どの」
陳秉文が口を開いた。
「老臣から率直に申し上げてもよろしいか」
「どうぞ」
「この条件は——朝廷にとって非常に重い。特に自治権の拡大は、前例がありません。老臣の判断で承諾できる範囲を超えております」
「承知しています。ですから、陛下にお持ち帰りください」
「しかし——」
「陳大人」
麗華の声が、わずかに柔らかくなった。
「わたくしは朝廷を潰したいわけではありません。この国の民が食べていけることが、わたくしの望みです。ただ、そのためには鳳凰領が安全でなければならない。二度と、政治の道具にされてはならないのです」
陳秉文は長い間、麗華の顔を見つめていた。
やがて、老人は深く頷いた。
「承知いたしました。陛下にありのままお伝えいたします」
「ありがとうございます」
麗華は立ち上がった。
「それと——陳大人」
「はい」
「帝都の食卓が寂しいのは、わたくしのせいではありません」
陳秉文が目を瞬いた。
「わたくしを捨てた方々のせいです」
その言葉は静かだったが、部屋の空気を一変させた。
第一話の去り際の言葉——「帝都の食卓が寂しくなりませんよう」。あの予言が、今、回答になった。予言ではなく、事実の指摘として。
麗華は穏やかに微笑んだ。
「最後にお茶をもう一杯、いかがですか。鳳凰領の碧螺春は、帝都ではもう手に入りませんから」
陳秉文は——笑った。
老人の目尻に皺が寄り、穏やかな笑みが浮かんだ。
「いただきます。この老いぼれに、最後の贅沢をお許しください」
春蘭が新しい茶を注いだ。碧螺春の澄んだ緑色が、朝の光に透けて翡翠のように光った。
陳秉文は茶を受け取り、香りを嗅ぎ、ゆっくりと一口飲んだ。
「……見事なお茶ですな」
「祖父が育てた茶樹の葉です。鳳凰領の土と水がなければ、この味は出ません」
「なるほど。鳳凰領という土地がいかに大切か——この一杯で分かります」
陳秉文は茶碗を置き、立ち上がった。
麗華に向かって、もう一度深く頭を下げた。
「鳳麗華どの。老臣は長く生きましたが、あなたほど見事な方にお会いしたのは初めてです」
「お世辞がお上手ですこと」
「世辞ではございません。——では、帝都に戻り、陛下にお伝えいたします」
陳秉文が客間を出ていった。
部屋に残されたのは麗華と春蘭と暁風の三人だった。
暁風が腕を解き、壁から離れた。
「……復位を断ったな」
「ええ」
「後悔はないのか」
「ありませんわ」
麗華は窓の外を見た。鳳凰領の田畑が、朝の光に輝いている。
「あの後宮に戻る理由がないもの。——ここがわたくしの場所ですから」
暁風は何も言わなかった。だが——その目が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。
春蘭だけが、それに気づいた。




