皇帝の決断
御書房に朝日が差し込んでいた。窓の格子を通して射し込む光が、卓の上の墨池と筆架を金色に照らしている。書棚の古い書物の匂いと、朝に焚いた白檀の残り香が混じっていた。
皇帝・瑛承乾は卓の前に座り、趙文昌と向かい合っていた。
二人きりの間に、側仕えはいない。承乾が退出を命じたのだ。
「趙宰相。正式な謝罪使節を送る」
承乾の声は静かだった。だが迷いのない響きがあった。
「陛下」
趙文昌は一瞬、目を見開いた。だがすぐに表情を整え、恭しく問い返した。
「謝罪使節、と仰いますと。鳳家に対して、でございますか」
「そうだ。廃妃の件について、朝廷の誤りを認め、正式に謝罪する」
「陛下、お待ちください。朝廷の威厳が——」
「威厳」
承乾が趙文昌の言葉を遮った。
「趙宰相。威厳とは何だ」
趙文昌が口を閉じた。
「威厳で粥が炊けるか。兵部尚書の言葉だ。朕はあの言葉を忘れていない」
承乾は卓の上の密書に手を置いた。暁風の報告だ。
「鳳凰領では、民が安定して暮らしている。食糧の民間流通は維持されている。困窮しているのは朝廷だけだ。——この現実を前に、威厳を語ることの虚しさを、宰相は理解しているか」
趙文昌の顔が強張った。
「陛下。鳳家に謝罪すれば、朝廷が鳳家に屈したことになります。他の領主たちが付け上がり——」
「他の領主に、穀物を作れる者がいるか。鳳家のように国の七割の食糧を賄える者がいるか」
「それは——」
「いない。だから謝罪するのだ。強い者に頭を下げるのが屈辱だというなら、弱い民を飢えさせるのは何と言う」
趙文昌は数珠を握りしめた。指の関節が白くなっている。
承乾は立ち上がった。
「朕が誤ったのだ。鳳貴妃を——いや、鳳麗華を廃妃にしたことは。趙宰相に言われるまま証拠を信じ、自分の目で確かめなかった。それが朕の過ちだ」
趙文昌の顔色が変わった。
「陛下、それは——」
「それを認めることが先だ。認めた上で、鳳家と対話する。それしか道はない」
承乾の声には、かつてない重みがあった。
即位以来四年間、この若い皇帝は趙文昌の言葉に従ってきた。「国のためです」と言われれば頷き、「朝廷の安定のためです」と言われれば承認してきた。趙文昌にとって、承乾は操りやすい君主だった。
だが今——その君主が、自分の言葉で語っている。
趙文昌は長い沈黙の後、口を開いた。
「陛下のお考えは……理解いたしました」
声は平坦だった。だが目が笑っていなかった。
「ただし、謝罪使節の格式と人選については、老臣にお任せいただきたい。朝廷の体面を最低限保つ形を整えなければ——」
「格式は任せる。だが人選は朕が決める」
趙文昌が目を細めた。四十年の政治経験で培った人相見の目が、皇帝の表情を読もうとしている。
「朕が決める、と」
「そうだ。前回は宰相の腹心を副使に入れ、交渉ではなく諜報をさせた。——今度はそうはいかぬ」
承乾の目が、真っ直ぐに趙文昌を見据えた。
趙文昌は、その目に見覚えがあった。先帝の目だ。あの聡明で柔弱な先帝が、ごく稀に——本当にごく稀に見せた、鉄のような意志の目。
(——この坊やは)
趙文昌は数珠から手を離した。
「承知いたしました。人選は陛下にお任せいたします」
頭を下げた。深く、長く。だがその顔は、承乾からは見えなかった。見えなくて——よかった。
趙文昌が退出した後、承乾は一人で御書房に残った。
卓の上には、先ほどまで趙文昌が座っていた椅子がある。宰相の重みで少し沈んだ座布団が、まだ温もりを残していた。
(——押し切った)
承乾は自分の手を見た。震えていない。
廃妃の詔を読み上げたあの日、手は震えていた。紙を持つ指先が微かに揺れ、声が一瞬途切れた。あの震えを、麗華は見ていた。分かっていて止められなかった自分の弱さを、麗華の琥珀色の瞳は正確に見抜いていた。
だが今日は——震えなかった。
趙文昌の前で「朕が誤った」と口にしたとき、承乾の心臓は確かに跳ねた。だが手は動かなかった。声も揺れなかった。
(四年かかった。自分の言葉で、あの老獪な宰相に物を言うまでに)
即位以来の四年間、承乾は趙文昌の影に隠れていた。いや——隠れていたのではない。隠れていることにすら気づいていなかった。それが今日、変わった。小さな変化だ。だがこの一歩がなければ、次の一歩もない。
御書房に側仕えが戻ってきた。
「陛下。お茶をお持ちしました」
運ばれてきたのは、薄い色の茶だった。最後の上等な茶葉は昨日で尽きた。今日からは二番煎じ以下の茶葉しかない。
承乾は茶を一口飲んだ。薄い。だが温かい。
「陛下」
側仕えが小さな声で告げた。
「最後の高級茶が尽きました。これからは——」
「構わん」
承乾は茶碗を卓に置いた。
「茶は茶だ。高いも安いもない。——ただ、次にまともな茶を飲めるとすれば、それは鳳凰領の茶だろうな」
独り言のように呟いて、承乾は窓の外を見た。
帝都の空は晴れていた。雲一つない蒼穹が広がっている。
謝罪使節の人選を考えなければならない。趙文昌の息がかかっていない、誠実な人物を。前回の正使・周大人は温厚だが、宰相派に押し切られやすかった。今度は——もっと骨のある人物が要る。
承乾は紙を広げ、候補者の名を書き始めた。趙文昌の派閥に属さず、人徳があり、鳳家に対して偏見を持たない人物。条件を頭の中で並べ、該当する名を一つずつ書き出していく。
筆が紙に触れるたび、墨の匂いが立った。書斎の匂い。承乾にとって最も馴染みのある匂いだ。だが今日は、その匂いの中に——覚悟の重さが混じっていた。
朝廷のパワーバランスが変わった瞬間だった。
皇帝が自分の言葉で決断し、宰相を押し切った。それは小さな一歩かもしれない。だがこの国の四年分の惰性を断ち切る、最初の一歩だった。




