蘇玉蘭の動揺
後宮の朝は、かつてとは別の景色になっていた。
秋の冷気が窓の隙間から忍び込み、床の石畳を冷やしている。かつて後宮の朝は、厨房から漂う豊かな香りで始まったものだ。蒸し物の湯気、炊きたての白飯の甘み、花の蜜を煮詰めた菓子の匂い。それが今は——何も匂わない。
蘇玉蘭は自室の寝台で目を覚まし、枕元の鈴を鳴らした。侍女が入ってくるまでの間、天蓋の絹を見上げていた。
天蓋の刺繍は蘭花の意匠だ。蘇家の象徴。この部屋のすべてが蘇家の色で染められている。寝具も、衣装も、髪飾りも。玉蘭自身の色など、どこにもない。
「玉蘭様、お目覚めでございますか」
侍女の秋月が入ってきた。手に盆を持っている。朝食の膳だ。
玉蘭は寝台から降り、卓に着いた。
膳の上を見て——一瞬、眉が動いた。
薄粥。漬物二品。以上。
「……これが朝食?」
「申し訳ございません。後宮への食糧配給がさらに削減されまして。嬪妃様方の膳も、この品数が上限とのことです」
玉蘭は碗を手に取った。
粥は薄かった。米粒より水の方が多い。漬物は大根の塩漬けと菜の塩揉みで、色も味も素っ気ない。
(かつて十品以上あった食卓が、これ)
玉蘭は粥を一口啜った。味がしない。米の甘みがないのだ。鳳凰米が届かなくなってから、宮廷の米は各地の代替品に切り替わった。だが痩せた土地の米は粘りも甘みもなく、粥にしてもただの白い水でしかない。
「秋月。他の嬪妃方の様子は」
「皆様、同じ膳でございます。ただ——」
秋月が言い淀んだ。
「何」
「嬪妃様方の中に、不満を仰る方が増えております。特に——」
「特に?」
「『蘇嬪が鳳貴妃を追い落としたから、こうなったのだ』と」
玉蘭の手が止まった。
「……そう」
粥の碗を卓に置いた。音は立てなかった。蘇家に仕込まれた所作だ。どれほど動揺しても、音を立てない。表情を変えない。完璧な寵姫の仮面を——。
だが今朝は、仮面が重い。
「秋月。下がって」
「はい」
侍女が退出し、玉蘭は一人になった。
粥を見つめた。薄い粥の表面に、自分の顔がぼんやりと映っている。
(鳳麗華)
その名を、心の中で呼んだ。
一年前。蘇家の命令で、鳳貴妃を廃妃に追い込んだ。偽証を揃え、趙文昌と手を組み、鳳麗華の退路を断った。完璧な計画だった。鳳貴妃は後宮を去り、蘇家は後宮の実権を握った。
勝ったのだ。
勝ったはずだった。
(なのに、なぜ私が——飢えているの)
玉蘭は粥を一口、もう一口と啜った。味のない白い水が喉を通る。
午後、後宮の中庭を歩いた。
かつて四季の花が咲き乱れていた庭園は、手入れが行き届かなくなっていた。庭師の食糧も削減され、人手が減っている。枯れかけた菊の前を通り過ぎ、池のほとりに立った。
池の水は澄んでいた。だが鯉の数が減っている。宮廷の食卓に上げられたのだ。観賞用の錦鯉が食材になるとは、半年前には思いもしなかった。
「蘇嬪様」
背後から声がかかった。
振り向くと、三人の嬪妃が立っていた。いずれも玉蘭より位の低い嬪妃だが、目に遠慮の色はなかった。
「お散歩ですか。優雅なことですわね。——私たちの膳は粥と漬物だけですけれど」
「皆様も同じ膳でしょう」
「ええ、同じですわ。誰のおかげでこうなったか、よくよく考えながらいただいておりますの」
三人目の嬪妃が一歩前に出た。
「蘇嬪様。あなたが鳳貴妃を追い落としたから、帝都の食卓がこうなったのですよ。ご存じでしょう?」
「わたくしは——」
「鳳家の穀物が七割。それを知っていて、鳳貴妃を廃妃にした。もっとも、そもそもの発端は蘇家の偽証でしたわね」
玉蘭は袖口で口元を隠した。蘇家に仕込まれた仕草だ。感情を悟らせない——だがその手が、微かに震えていた。
「お言葉ですが、廃妃の詔は陛下が——」
「陛下を操ったのは誰かしら」
嬪妃たちの目が冷たかった。
玉蘭は黙った。反論の言葉は持っていた。蘇家の教育で、あらゆる場面での切り返しを叩き込まれている。だが——今、口を開けば声が震えそうだった。
「失礼いたします」
玉蘭は背を向け、足早にその場を離れた。
自室に戻り、扉を閉めた。
寝台の端に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。震えが止まらなかった。
(あの女が——鳳麗華が、どれほどのことをしたのか)
初めて、実感として理解した。
鳳麗華を追い落とせば、蘇家が後宮を支配できる。それが蘇家の算段だった。玉蘭もそれを信じた。信じるしかなかった。食糧のことなど、考えもしなかった。穀物がどこから来て、誰が作り、どうやって届くのか——後宮で育った玉蘭には、想像すらできなかったのだ。
(勝ったのは、どちらだったの)
その問いが、胸の中で何度も繰り返された。
玉蘭は窓の外を見た。後宮の庭に、夕日が差している。かつてはこの時刻に夕餉の準備が始まり、厨房から豊かな香りが漂ってきたものだ。今は——何も匂わない。
鳳麗華は今頃、鳳凰領で何を食べているのだろう。領民に囲まれ、豊かな食卓に着いているのだろうか。
(あの人は——最初から、こうなることを知っていた)
廃妃の日の、あの微笑みを思い出した。泣き崩れると思っていた。屈辱に打ちひしがれると思っていた。だが鳳麗華は——微笑んだのだ。穏やかに、優雅に。
『帝都の食卓が寂しくなりませんよう』
あの言葉が、今になって突き刺さった。
玉蘭は寝台に横になり、天蓋を見上げた。蘭花の刺繍。蘇家の色。
(わたくしは蘇家の駒。蘇家が望むことが、わたくしの望むこと)
いつもの言い聞かせが、今日は——うまく機能しなかった。
薄暗くなった部屋の中で、蘇玉蘭は目を閉じた。空腹を感じている。薄粥と漬物では、体の芯まで満たされない。かつて後宮の食卓に並んでいた白飯の甘い香り、蒸し物の豊かな湯気、果物の蜜煮の艶やかな色彩——その全てが、今は遠い記憶の中にしかない。閉じた瞼の裏に、鳳麗華の微笑みが焼きついていた。




