朝廷の混乱
武力制圧案は、朝議の翌日も朝廷を揺らした。
趙文昌は御書房に呼ばれた重臣たちを前に、改めて持論を展開した。
「鳳凰領の領兵は精々五百。禁軍五千を動かせば、三日で制圧できる。穀物を確保すれば備蓄は回復し——」
「宰相閣下」
兵部尚書が遮った。
「昨日の陛下のお言葉をお忘れか。『兵を送ってどうする。兵もまた食糧が要る』と」
「陛下は若い。戦の実際をご存じない」
「戦の実際を申し上げているのは私です。行軍の糧食、占領後の補給、長期駐留の維持費——すべて帳簿に載る数字です。数字が合いません」
趙文昌の目が鋭くなった。だが兵部尚書は退かなかった。
重臣たちの間で議論が続く中、皇帝・瑛承乾は御書房の奥、私室に篭っていた。
卓の上に、陸暁風からの密書が広げられていた。
最新の報告だ。交渉使節が鳳凰領から戻り、正使の周大人から口頭での報告は受けた。だが承乾が信じるのは、暁風の目で見た現実だった。
密書を開く。
『使節団は鳳凰領を発った。交渉は決裂した。鳳麗華は官糧の完全停止を宣言した。
使節の滞在中、鳳凰領の様子は以前と変わらない。農地は豊かで、領民は安定した暮らしを送っている。市糧の民間流通は通常通り維持されている。領民の表情に不安はない。
副使の張大人は滞在中、備蓄庫や農地の詳細を探ろうとしていた。鳳家側はこれを察知しており、巧みに情報を遮断していた。
交渉の席で、鳳麗華は三つの条件を提示した。自治権の拡大、弾劾の撤回と公式謝罪、地養術の管理保障。副使はこれを即座に拒否した。鳳麗華は副使の態度変化から、帝都からの密命書の存在を看破していた模様。
なお、鳳凰領の東端、荒地との境界付近で不明な光を確認した。霊脈の反応に似ている。鳳麗華に報告したが、現時点では保留とされた。詳細は次報にて。——陸暁風』
承乾は密書を卓に置いた。
事実だけが書かれた報告書だ。暁風の個人的な意見は一語もない。だが事実の選び方、記述の順序、何を書き何を書かないかという判断そのものに——暁風の認識が滲んでいた。
(暁風。お前は鳳麗華が正しいと思っているのだな。書いてはいないが、読めば分かる)
承乾は窓の外を見た。帝都の空は曇っていた。
密書の最後に記された「荒地の不明な光」が気になった。霊脈の反応。荒地に、命の兆し。それが何を意味するのか、承乾には分からない。だが暁風がわざわざ書いたということは、何か重要な予兆なのかもしれない。
昼食が運ばれた。
白粥と塩漬け菜。
皇帝の昼食としては、あまりにも寂しい膳だ。かつては十品以上の料理が並んだ卓に、今は碗が二つだけ。粥の中の米粒は疎らで、塩漬け菜は色褪せた緑だった。
承乾は箸を取り、粥を啜った。
「……朕もこの程度なのだな」
小さな苦笑が漏れた。
粥は薄く、塩気も足りない。だが承乾は碗を置かなかった。一口一口、味わうでもなく、ただ確かめるように食べた。
(この味を知っていなければならない。朕の民が食べている飯の味を、朕が知らないでどうする)
粥を食べ終え、承乾は塩漬け菜の最後の一切れを口に入れた。
市場に行けば、鳳凰米は買えるのだ。民間の商会が売っている。皇帝の名で買い付ければ、宮廷の食卓を元に戻すこともできるだろう。
だが、それはしない。
(朝廷の食卓が困窮しているという事実を、朕自身が受け止めなければならない。誰かのせいにして、自分だけ飯を食うわけにはいかぬ)
承乾は空になった碗を見つめた。
趙文昌は武力を主張している。だが暁風の報告を読めば、武力に意味がないことは明らかだ。鳳凰領の穀物は力で奪えるものではない。地養術がなければ荒地は広がり、穀物は減る。鳳麗華を排除すれば、穀物を作れる人間がいなくなる。
(武力で穀物は育たない。——あの女の条件を、検討するしかないのか)
承乾は密書をもう一度読み返した。自治権の拡大。弾劾の撤回と公式謝罪。地養術の管理保障。
どれも、朝廷にとっては重い。だが——
(朕が誤ったのだ。鳳貴妃を廃妃にしたのは朕の詔だ。ならば、その過ちを認めることから始めるしかない)
承乾は筆を取った。
何を書くべきか、しばらく考えた。そして——迷いを振り切るように、一気に書いた。
宰相府への書簡ではない。御書房の私室から、直接議場に届ける勅旨だ。
『武力制圧案を却下する。鳳家は朝廷の敵ではない。食糧問題の解決は、交渉と対話によって行う。これが朕の意志である』
簡潔な文だった。だが皇帝が自らの言葉で勅旨を書くこと自体が、異例中の異例だった。
墨が乾くのを待つ間、承乾は窓の外を見た。
曇り空の向こうに、うっすらと日の光が射していた。
廊下を歩く足音が聞こえた。御書房の外で控えている側仕えの気配。
「陛下、お茶をお持ちしました」
側仕えが小さな声で告げた。
「入れ」
運ばれてきたのは、茶碗一つ。中の茶は薄い色をしていた。
「残りの茶葉でございます。上等のものはもう——」
「構わん」
承乾は茶を一口飲んだ。薄い。香りも弱い。だが茶は茶だ。
側仕えが小さく呟いた。
「最後の一葉でございます」
承乾は茶碗を卓に置いた。
(最後の一葉——か。ならば、次の一葉を得るために何をすべきか)
勅旨の墨が乾いた。承乾はそれを封じ、側仕えに渡した。
「議場に届けよ。趙宰相に直接渡せ」
「はい」
側仕えが去った後、承乾は一人で薄い茶を飲み干した。
鳳凰領では今頃、麗華が茶を淹れているのだろうか。暁風の報告では、鳳凰領の茶は絶品だという。暁風自身は茶の味の良し悪しなど分からない男だが、「帝都の茶には戻れない」と書いていた。書いたつもりはないのだろうが、行間に滲んでいた。
(暁風。お前は鳳凰領に取り込まれたのではない。正しいものを見て、そちらへ寄ったのだ。——お前の忠義は、昔も今も変わっていない)
承乾は空の茶碗を見つめた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外、帝都の空に薄日が射している。曇りの向こうに、確かに光がある。
暁風の密書を懐に入れ、承乾は私室を出た。趙文昌と向き合う覚悟を、胸の中で固めながら。




