完全停止
報告は、朝議の席で齎された。
議場の高い天井から差し込む朝の光が、朱塗りの柱を鋭く照らしている。空気は冷えていた。秋の終わりの肌寒さだけではない。ここ数月の議場には、目に見えない重圧が沈殿していた。
「——鳳凰領からの官糧が、完全に停止いたしました」
戸部尚書の声が、朝廷の議場に落ちた。
朱塗りの柱が等間隔に並ぶ荘厳な空間。高い天井から差し込む朝の光。その光の中に、二十余名の重臣が居並んでいた。
誰も、すぐには声を出さなかった。
「完全に、と申しますと」
礼部尚書が慎重に口を開いた。
「一粒も、です。鳳凰領との街道に設けられた関所で、穀物の通過がゼロになりました。減額でも、品目制限でもない。文字通りの完全停止です」
「民間の流通は」
「市糧は通常通り動いております。鳳凰領の商会を通じた民間向け穀物は、価格も量も変わりません。止まったのは官糧——つまり朝廷向けの公式納入のみです」
議場がざわついた。
趙文昌は上座で数珠を弄んでいた。表情は変えない。だが数珠を繰る指の速度が、いつもより明らかに速かった。
「備蓄はどれほど残っている」
「算出いたしました」
戸部尚書が帳簿を広げた。
「現在の朝廷備蓄は、穀物二万四千石。うち精白米は八千石、雑穀が一万六千石。軍糧を含めた消費速度から逆算いたしますと——」
戸部尚書は一度、唾を飲み込んだ。
「残り三ヶ月です」
沈黙が落ちた。
三ヶ月。
それは、来年の収穫まで持たないという意味だ。他領からの代替穀物は焼け石に水で、荒地化が進む各地の領地にそもそも余剰がない。鳳凰領以外に頼れる食糧源はなく、三ヶ月後には朝廷の備蓄が底をつく。
「宰相閣下」
兵部尚書が口を開いた。歴戦の武人らしい低い声だ。
「禁軍の兵糧についてもお伝えしたい。現状の備蓄では、禁軍五千の兵を維持できるのは四ヶ月。野戦糧食に切り替えればもう少し延びますが、訓練の質は落ちます」
「帝都の治安は」
「今のところ問題はありません。民間の市糧は動いておりますから、市井の民は飢えていない。だが——」
兵部尚書が言葉を切った。
「問題は、民が知っていることです。『朝廷は困っているが、鳳家のおかげで自分たちは食べられている』——この認識が帝都中に広まっています。朝廷の正統性に関わる問題です」
趙文昌が数珠を止めた。
「つまり。官糧が止まり、備蓄は三ヶ月。軍糧は四ヶ月。民は飢えていないが、朝廷の威信が揺らいでいる。——それが現状か」
「はい」
戸部尚書が頷いた。
趙文昌は立ち上がった。
「ならば——武力で制圧する」
議場が凍った。
「鳳凰領に兵を送り、穀物を接収する。鳳家が応じなければ、反逆罪で処断する。朝廷の威信を示すにはこれしかない」
「宰相閣下」
兵部尚書が声を上げた。
「お言葉ですが、兵を送るにも食糧が要ります。鳳凰領までの行軍に必要な糧食だけでも、備蓄の一割を消費します。現地で長期戦になれば——」
「長期戦にはならん。鳳家の領兵など高が知れている」
「鳳凰領の地の利を侮るべきではありません。それに——兵が鳳凰領の農地を踏み荒らせば、来年の収穫にも影響が出ます。穀物を手に入れるために穀物を作る土地を壊しては本末転倒です」
議場が再び沈黙した。
その沈黙を破ったのは、御簾の奥からの声だった。
「兵を送ってどうする。兵もまた食糧が要る」
皇帝・瑛承乾の声だった。
御簾が揺れ、若き皇帝の姿が議場に現れた。朝議に皇帝が直接姿を見せるのは異例のことだ。通常は御簾越しに聞き、勅旨を下すだけである。
重臣たちが一斉に跪いた。
「陛下——」
「趙宰相。兵を出せば穀物が湧いて出るのか。戦をすれば田畑が蘇るのか」
承乾の声は静かだが、いつもの迷いがなかった。
「鳳家は反逆者ではない。穀物の公式納入を止めただけだ。民間の流通は維持している。民を飢えさせてはいない。——それを武力で制圧すれば、朝廷は食糧を強奪する盗賊と同じになる」
趙文昌の顔が蒼白になった。
「陛下、しかし——」
「朕は聞いた。三ヶ月だそうだな。三ヶ月の間に、朝廷がやるべきことは武力ではない」
承乾は議場を見回した。
「考えよ。鳳家を敵に回さず、穀物を得る方法を。——それが朝廷の仕事だ」
皇帝が踵を返し、御簾の奥に消えた。
議場に残された重臣たちは、しばらく誰も動けなかった。
趙文昌は数珠を握りしめたまま、皇帝が消えた御簾を凝視していた。あの若い皇帝が——自分の言葉を、正面から退けた。即位以来四年間、一度もなかったことだ。
(——変わりつつある。あの坊やが)
趙文昌の目に、初めて焦りとは別の感情が浮かんだ。それは——恐れだった。
議場が散会した後、備蓄庫の棚卸しが始まった。
帝都の地下に広がる朝廷の備蓄庫。薄暗い空間に、穀物の袋が整然と積まれている。だがその量は、半年前とは比べものにならないほど減っていた。
戸部の官吏たちが一袋ずつ数え、帳簿に記録していく。
精白米の区画はほぼ空だった。残っているのは雑穀と、質の落ちた代替穀物ばかりだ。かつてこの備蓄庫は鳳凰米で溢れていた。袋を開けるだけで甘い香りが漂い、精白された米粒が宝石のように光っていた。
今は、その影もない。
「三ヶ月か」
戸部の若い官吏が呟いた。
「三ヶ月後にはここが空になる。俸禄米も出せなくなる。禁軍の飯も炊けなくなる」
「どうするんだ」
「知らん。だが——」
若い官吏は備蓄庫の入口を見上げた。
「市場に行けば、鳳凰米は買える。民間の商会が売っている。値段も変わらない。——困っているのは朝廷だけだ」
もう一人の官吏が苦笑した。
「つまり、廃妃にした女に兵糧攻めにされているということだ。俺たちだけが」
二人は顔を見合わせ、それ以上は何も言わなかった。
備蓄庫の奥で、穀物の袋を数える音だけが響いていた。残り三ヶ月。その数字は、帝都の空気を確実に変え始めていた。




