荒地の光
鳳凰領の東端は、荒地と接している。
豊かな田畑が途切れ、草木の色が褪せ、やがて灰色の乾いた大地が広がる。百年前の霊脈震が残した傷跡だ。かつては鳳凰領と同じ沃野だったというが、今は痩せた土が風に削られ、石と砂ばかりの不毛の地になっている。
陸暁風は馬を降り、荒地の境目に立っていた。
日課の巡回だ。鳳凰領の外周を半日かけて一巡する。使節団が去った後も、蘇家の偵察者が領内に潜り込む可能性がある。交渉が決裂した以上、次に朝廷が何を仕掛けてくるか分からない。
暁風は腰の水筒から水を一口飲み、懐から干し肉を取り出した。
鳳凰領の兵糧用の干し肉だ。塩漬けにした豚の腿肉を天日で干し、さらに花椒と八角で香りをつけている。噛むと肉の旨みが口に広がり、花椒の微かな痺れが舌を刺激する。帝都の禁軍で食べていた干し肉とは雲泥の差だった。あちらは塩と硬さだけで、「食えればいい」という代物だった。
(帝都の兵糧が、いかに貧しかったか——ここに来て初めて分かった)
暁風は干し肉を噛みながら、荒地を眺めた。
灰色の大地が東の山脈まで続いている。風が砂を運び、細かい埃が視界を霞ませる。生き物の気配はない。草一本、虫一匹いない。死んだ土地だ。
暁風は何度もこの境界を見てきた。鳳凰領の豊かさと荒地の死の対比は、何度見ても胸に重い。この境を守っているのが、麗華の地養術だ。あの女一人の力が、この領地を生かしている。
(——一人で、どこまで持つのだ)
その考えを振り払うように、暁風は荒地の縁に沿って歩き始めた。
足元の土は乾いていた。鳳凰領側の黒い沃土が、数歩で灰色の痩せ土に変わる。境界は明確だ。まるで地面に線を引いたように、命と死が分かれている。
暁風は境界線に沿って東に進んだ。日が傾き、荒地に長い影が落ち始めた頃——
足が止まった。
光が見えた。
荒地の端、境界線から十歩ほど入った地点に、微かな光が揺れていた。
蛍のような、小さな光だ。だが蛍にしては色が違う。淡い緑色で、地面の中から滲み出るように光っている。
暁風は目を凝らした。
光は二つ、三つ。地面の割れ目から漏れ出ている。弱々しく、今にも消えそうだが——確かに、光っている。
(霊脈の……光か?)
鳳凰領の農地では、地養術を施した直後に土が微かに光ることがあると聞いた。麗華が霊脈の力を注ぎ込んだ証だ。だがここは荒地だ。地養術など施されていない。死んだはずの土地に、なぜ——
暁風は慎重に近づいた。
光に手を伸ばそうとした瞬間、光はすっと消えた。
暁風は膝をつき、光が見えた地点の土を手で触れた。
……湿っていた。
乾ききった荒地の土に、微かな湿り気がある。指で擦ると、灰色の土の中に黒い粒が混じっていた。鳳凰領の沃土に似た色だ。
(——死んだ土地に、命の気配がある?)
暁風は立ち上がり、周囲を見回した。荒地は依然として灰色の死の大地だ。だがこの一点だけに、何かが残っている——あるいは、何かが生まれようとしている。
日が沈みかけていた。暁風は馬に飛び乗り、鳳家の屋敷に向かった。
屋敷に着いたのは、夕餉の時刻を過ぎた頃だった。
麗華は書斎にいた。使節団が去った後の書類を整理しているらしく、卓の上に帳簿が積まれていた。燭台の光が琥珀色の瞳を照らし、筆を走らせる横顔は穏やかだが、どこか疲れの色があった。
「暁風どの。お帰りなさい。巡回お疲れさまです」
「ああ。——報告がある」
暁風は椅子に座らず、卓の前に立ったまま告げた。
「荒地の端で光を見た。霊脈のようだった」
麗華の筆が止まった。
「霊脈?」
「ああ。鳳凰領との境から十歩ほど入った地点だ。淡い緑色の光が、地面の中から出ていた。近づいたら消えた。だが土に湿り気があった。黒い土が混じっていた」
麗華は筆を置き、暁風の顔を見つめた。
しばらくの沈黙。
「……珍しいことね」
麗華は呟いた。その声には驚きがあったが、同時に何か——慎重に感情を押し込めるような響きがあった。
「荒地の霊脈は百年前に死んだとされています。光が見えたのだとすれば……」
「何か意味があるのか」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。霊脈の残滓が時折揺らぐことはあります。地震の前触れのようなものかもしれない」
麗華は目を伏せた。
「でも今は——手が回らないの」
その声は、いつもの鋭い知略家の声ではなかった。使節との交渉、官糧の完全停止、これから起こるであろう朝廷の反応。考えなければならないことが山積している。荒地の光は重要かもしれないが、今この瞬間に追うべき問題ではない。
「分かった」
暁風は頷いた。
「だが、記録は残しておく。場所と時刻。光の色と大きさ。土の状態。——次の巡回でも確認する」
「……ええ。お願いします」
麗華が微かに笑った。疲れた笑みだったが、暁風の申し出を受け入れる柔らかさがあった。
「暁風どの。夕餉はもう召し上がりましたか」
「いや」
「でしたら、厨房にまだ残っているはずです。今日は芋の煮物と漬物だけですが——」
「十分だ」
暁風は書斎を出た。
廊下を歩きながら、荒地で見た光のことを考えた。あの淡い緑色。土の湿り気。死んだはずの大地に残る、かすかな命の兆し。
(——死んでいないのかもしれない)
だがその考えは、今は胸の中にしまっておいた。麗華が「今は手が回らない」と言った。ならば自分にできることは、記録を取り、見守ることだ。
厨房で芋の煮物を一椀もらい、縁側に腰を下ろして食べた。里芋を鶏出汁と醤油で煮含めた素朴な一品だ。芋が箸で崩れるほど柔らかく、出汁の旨みが芯まで染みている。冷めかけていたが、旨かった。
暁風は空になった椀を膝に置き、夜空を見上げた。
星が出ていた。鳳凰領の空は、帝都よりもずっと星が多い。
荒地の果てにも、この星は見えているのだろうか。あの死んだ大地にも、光が届いているのだろうか。
暁風はそのことを誰にも言わず、ただ黙って星を見ていた。




