決裂
三日目の交渉は、最後の食事とともに始まった。
交渉の間に朝の光が差し込み、磨かれた木卓の表面を温かく照らしていた。
卓上に、料理が並んでいた。
鳳凰米の白飯。茶碗から立ち昇る湯気が、穀物の甘い香りを部屋に満たしている。蒸し鯉の薄切り、葱姜の餡かけ。鯉の白い身が翡翠色の餡に包まれ、刻んだ葱の白と生姜の淡黄が彩りを添えている。青菜の炒め物。豆腐と木耳の澄まし汁。汁の表面に胡麻油の輪が浮かび、木耳の黒と豆腐の白が対照をなしていた。小皿には干し棗の蜜煮。
歓迎宴の豪勢さはないが、品数は揃っていた。温かい湯気が部屋に満ち、料理の香りが冷えた朝の空気を和らげている。前日の白粥から一段格を上げた膳だ。
「最終日ですから、少し整えさせていただきました」
麗華が微笑んで箸を勧めた。
正使の周大人が安堵の表情で箸を取った。張延嗣は箸を取ったが、食べる前に麗華の顔を見た。
「最終日、と仰いましたが。交渉を打ち切るおつもりですか」
「いいえ。結びをつけるつもりです」
麗華は白飯を一口食べた。鳳凰米の甘みが口に広がる。いつも通りの味だ。この米が帝都に届かなくなって、もう四月が経つ。
「張副使。昨日の続きですが、三条件の再考は帝都に持ち帰るとのことでしたね」
「ええ。持ち帰り、宰相閣下と協議のうえ——」
「持ち帰る必要はありません」
麗華が箸を置いた。
静かな音だった。木の箸が木の卓に触れる、ささやかな音。だがその音が、交渉の間の空気を一変させた。
「条件は三つ申し上げました。自治権の拡大。弾劾の撤回と公式謝罪。地養術の管理保障。いずれも鳳家と鳳凰領が——ひいてはこの国の民が安全に暮らすために必要なものです」
「それは鳳家の主張であって——」
「張副使」
麗華の声が一段低くなった。微笑みは消えていない。だが目が笑っていなかった。
「趙宰相閣下の密書には何と書いてありましたか。『条件は一切受けるな。時間を稼げ』——でしょう?」
張延嗣の顔色が変わった。正使の周大人が驚いて副使を見た。
「私は密書の中身まで存じません。ですが、宰相閣下のお考えは想像がつきます。交渉に本気はない。時間を稼ぎ、鳳家の内情を探る。それが本当の目的」
張延嗣は何も言わなかった。否定しなかった。
麗華は立ち上がった。
「ならば、交渉はここまでです」
椅子が引かれる音が、静かな部屋に響いた。
「お食事の途中で失礼いたしますが——もう召し上がる必要はございません」
卓上の料理はまだ半分以上残っていた。白飯は湯気を上げ、蒸し鯉の餡は艶やかに光り、澄まし汁には豆腐が揺れている。温かい食事。だがこの瞬間から、それは「もてなし」ではなくなった。
「鳳麗華どの——」
正使が立ち上がりかけた。
「周大人。あなたには感謝しております。誠意ある方だと思いました」
麗華は正使に向かって丁寧に頭を下げた。
「ですが、朝廷の答えは最初から決まっていた。この交渉は出来レースです。私の条件を検討する気もなく、ただ時間を稼ぐために。——そのような席で、食事をお出しする意味はありません」
麗華は春蘭に目配せした。春蘭が一歩前に出た。
「それと——本日をもって、鳳凰領から帝都への官糧供給を完全に停止いたします」
張延嗣が椅子から腰を浮かせた。
「完全停止だと——」
「これまでは段階的に減らしておりました。品目を制限し、量を絞り、交渉の余地を残して。ですが、交渉の余地がないのであれば」
麗華は振り向いた。琥珀色の瞳が、朝の光を受けて金色に光った。
「今日から一粒たりとも、帝都には送りません」
沈黙が落ちた。
卓上の料理から、ゆっくりと湯気が消えていった。蒸し鯉の翡翠色の餡が冷えて表面が曇り、澄まし汁には薄い膜が張り始めた。白飯の粒が乾き始め、さきほどまで真珠のように輝いていた米粒が白く光を失っていく。干し棗の蜜煮だけが琥珀色の艶を保ち、卓の上で小さく光っている。
食事が冷えていく。
それは交渉の温度そのものだった。
暁風は部屋の隅に立ったまま、腕を組んでいた。麗華の宣言を聞いた瞬間、腕に力が入った。だが言葉は出さなかった。出せなかった。
(——覚悟を決めたな、この人は)
張延嗣が口を開こうとしたが、正使の周大人が先に動いた。
老官吏は椅子から立ち上がり、麗華に向かって——深く、頭を下げた。
「鳳麗華どの。老いぼれの交渉人で、申し訳ない」
「周大人」
「あなたの怒りは正当だ。老いた身にはよく分かります。——帝都に戻り、陛下にありのままを申し上げましょう」
麗華の目が、一瞬だけ揺れた。この老人の誠意を、嘘だとは思わなかった。
「……ありがとうございます、周大人」
正使はもう一度頭を下げ、張延嗣を促して席を立った。
使節団は翌朝、鳳凰領を発った。
城門から馬車が遠ざかっていく。春の風が砂埃を巻き上げ、車輪の跡を薄く消していった。
麗華は城門に立ち、使節の馬車を見送った。春蘭が隣に立ち、暁風がその後ろに控えていた。
馬車が丘の向こうに消える直前——正使の馬車の窓から、白い手が伸び、こちらに向かって一礼した。
麗華はそれに応えるように、わずかに頭を下げた。
馬車が消えた。
風が吹いた。鳳凰領の田畑から、青い稲の匂いが運ばれてきた。春の陽光が城門の石壁を温め、苔の匂いと土の匂いが混じり合っている。
「——お嬢様」
春蘭が低い声で呼びかけた。
「始まりましたね」
「ええ」
麗華は城門の柱に手を置いた。指先が、微かに冷たかった。
「始まったわ。——ここからが本当の戦よ」
その声は、いつもの穏やかな微笑みとは違う、静かな覚悟の色を帯びていた。
城門の向こうに、鳳凰領の広大な田畑が広がっている。黄金色の稲穂が風に揺れ、どこかの畑で領民が鍬を振る音が聞こえてくる。この豊かさを——守り抜く。何があっても。




