趙文昌の横槍
鳳凰領の夜は深かった。
使節団に宛てがわれた客館の一室で、副使・張延嗣は燭台の明かりに顔を近づけていた。
机の上に、封蝋つきの小さな書簡がある。
先刻、帝都からの密使が裏門から入った。客館の下男に化けた男が、張延嗣の寝所に書簡を一通置いて去った。宰相・趙文昌の筆跡。封蝋には趙家の家紋が薄く刻まれている。
張延嗣は封を切り、中を開いた。
『条件は一切受けるな。時間を稼げ。鳳家の条件を呑めば、朝廷の威信が瓦解する。交渉は引き延ばしつつ、内情の調査を続行せよ。特に地養術の詳細と穀物備蓄の実数を掴め。——趙』
簡潔な文だった。だが行間に滲む焦りは隠しきれていない。張延嗣は密書を燭台の火に翳し、紙が燃え上がるのを見届けた。灰が机に散り、煙の匂いが部屋に漂った。
(宰相閣下も追い詰められているな)
張延嗣は椅子の背に体重を預けた。
鳳凰領に来て数日。正使の周大人は鳳家の食事と礼遇にすっかり懐柔されている。もともと温厚な人物だ。交渉よりも麗華の淹れる茶に感激している始末である。
だが張延嗣は違う。趙文昌の腹心として送り込まれた目的は、最初から交渉ではない。
(時間を稼げ、か。——了解した、宰相閣下。だが鳳家の内情はそう簡単には見えない)
鳳凰領の警備は緩いように見えて、要所が押さえられている。監視役の陸暁風が領内の巡回を統括しているうえ、麗華の侍女頭・柳春蘭の耳目がどこにでもある。備蓄庫に近づこうとした部下は、さりげなく案内係に別の道へ誘導された。
張延嗣は密書の灰を払い、窓の外を見た。鳳凰領の夜は静かだが、どこからか炊飯の残り香が漂ってくる。夕餉の匂いだ。使節団にも夕食が振る舞われたが、帝都の宮廷料理とは比較にならない質だった。
紅花餅——赤い花弁を練り込んだ甘い蒸し餅に、蓮の実の餡が詰まっている。一口噛むと、もっちりとした皮の食感の奥から花の香りが鼻に抜け、蓮の実の淡い甘さが舌に広がった。帝都では手に入らなくなった上質な蓮の実だ。餅の表面に浮かぶ紅花の色彩が、灯火に照らされて宝石のように光っている。使節団の誰もが無言で食べた。旨いと言えば、それは鳳家の力を認めることになるからだ。
(——旨かったが)
張延嗣は舌の上に残る甘さを噛み締め、表情を引き締めた。
明日の交渉は、態度を変える。
翌朝。
交渉の間には、朝の光が障子越しに差し込んでいた。
長い木卓の両側に、鳳家側と朝廷使節が向かい合って座る。鳳麗華は卓の上座に、柳春蘭が半歩後ろに控えていた。陸暁風は部屋の隅に立ち、腕を組んでいる。
麗華の前に、茶器が二組置かれていた。
「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか」
麗華が微笑んだ。いつもの穏やかな笑みだ。
「ええ、おかげさまで」
正使の周大人が頭を下げた。だが——
「形式的な挨拶は不要です」
張延嗣が遮った。
空気が変わった。昨日まで正使の陰に控えていた副使が、一歩前に出た形だ。
「本日は交渉の本題に入りたい。鳳家が提示された三条件——自治権の拡大、弾劾の撤回と公式謝罪、地養術の管理保障。いずれについても、再考を求めます」
「再考、ですか」
麗華は茶碗を手に取った。湯気が立つ碧螺春の香りが漂う。
「朝廷の威信を考慮すれば、先の条件は過大と申すほかありません。鳳家の官糧再開と引き換えに、朝廷が提示できるのは貴妃への復位と恩赦——それが限度です」
「限度、とは朝廷がお決めになることですね」
「無論です。朝廷の決定に、地方の一領主が口を挟むべきではない」
張延嗣の声は平坦だったが、言葉の選び方が変わっていた。昨日までの慎重な姿勢が消え、挑発的な語調になっている。
麗華の右手の人差し指が、左手首の内側をそっと撫でた。
(——なるほど。帝都から何か来たわね)
麗華は茶を一口飲み、碗を置いた。
「張副使。昨夜、お客様がいらしたようですが」
張延嗣の目が微かに揺れた。
「何のことでしょう」
「裏門から入り、下男の衣を着た方が。客館の警備は私どもが担っておりますので、出入りは把握しております」
正使の周大人が顔を強張らせた。張延嗣は表情を変えなかったが、一瞬だけ目線が卓の上の茶碗に落ちた。
麗華はそれ以上追及しなかった。追及する必要がないのだ。「知っている」と伝えるだけで十分だった。
「さて」
麗華が手を叩くと、春蘭が厨房に合図を送った。
運ばれてきたのは、前日より一段格の落ちた膳だった。白粥と塩漬け菜、干し魚の煮付け。使節をもてなす料理としては簡素すぎる。
「本日のお食事です。交渉の進み具合に合わせて、お料理の格を変えさせていただいております」
張延嗣が目を細めた。
「脅しですか」
「いいえ。誠意の反映です」
麗華が微笑んだ。穏やかな、春風のような微笑みだった。
「交渉が前に進めば、食卓も華やかになります。止まれば、このように。——帝都の朝廷と同じですよ。穀物が届かなければ、食卓は寂しくなる。道理は同じです」
暁風が部屋の隅で腕を解き、一瞬だけ麗華を見た。
(——この女は。食事の一膳まで交渉の道具にするのか)
感嘆と、微かな畏れが混ざった視線だった。
正使が困った顔で粥を啜った。張延嗣は箸をつけなかった。
「……条件の件は、帝都に持ち帰り検討させていただきます」
「あら、ご検討いただけるのですね」
「検討に値するとは申しておりません」
「ええ。でも検討はなさるのでしょう?」
張延嗣が口を閉じた。麗華の言葉の罠に気づいたのだ。「検討する」と言えば条件を認めたことになり、「検討しない」と言えば交渉を拒否したことになる。
麗華は粥を一口啜り、穏やかに呟いた。
「お粥、冷めますよ」
交渉の間に、朝の光が差し込んでいた。だがその光は、張延嗣にとっては——少しも温かくなかった。




