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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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暁風の問い

 交渉が暗礁に乗り上げた夜だった。

 使節からの返答はない。張文遠ちょう・ぶんえんは部屋にこもり、帝都への密書を書いているのだろう。周鶴齢しゅう・かくれいは夕食も取らずに寝所に引き上げたと、春蘭しゅんらんが報告した。


 麗華れいかは書斎で交渉の次の手を練っていたが、ふと筆を止めた。


 疲れていた。


 交渉の三日間、一瞬も気を抜けなかった。笑みの裏で常に相手の反応を読み、言葉の一つ一つを計算し、料理の一品ごとに意味を込めた。それが——今夜、どっと圧し掛かってきた。


 麗華は筆を置き、書斎を出た。


 中庭に出ると、夜気が冷たかった。秋の終わりの夜は底冷えがする。空には月が出ていた。雲が薄くかかり、月光が鳳家屋敷の瓦屋根を白く照らしている。


 中庭の東屋あずまやに向かった。一人になりたかった。春蘭にも声をかけず、灯りも持たずに。月明かりだけで十分だった。


 東屋に着き、長椅子に腰を下ろした。冷たい石の座面が、薄い衣を通して体に伝わる。


 息を吐いた。白い息が月光の中に消えた。


「——こんな時間に、何をしている」


 声がした。


 暁風ぎょうふうだった。


 東屋の柱の陰から姿を現した。灰白の麻袍に革帯、いつもの簡素な姿。腕を組んで柱に寄りかかっている。


「陸将軍こそ、何をしていらっしゃるの」


「見回りだ。監視役の仕事だ」


「嘘が下手ですね」


 麗華は小さく笑った。暁風は眉を寄せたが、反論しなかった。


 しばらく沈黙が流れた。虫の声が遠くに聞こえる。月が雲の合間を移り、東屋に差し込む光が揺れた。


「——腹は減っていないか」


 暁風がぶっきらぼうに言った。


「え?」


「夕飯を食べていないだろう。春蘭が言っていた」


「……聞いていたの」


「たまたまだ」


 暁風は東屋から姿を消し、しばらくして戻ってきた。手に盆を持っている。その上に碗が二つと漬物の小皿。


「何ですか、それ」


「麺だ。厨房に残っていた」


 暁風は盆を東屋の石卓に置いた。碗の中には、鶏の出汁で作った温かい麺が入っていた。細い麺に澄んだ鶏出汁がたっぷり注がれ、薄切りの葱が浮いている。小皿の漬物は白菜の塩漬けだ。


 素朴な夜食だった。歓迎の宴にも交渉の食卓にも出さないような、飾り気のない一杯。


「陸将軍が……作ったのですか」


「厨房の者に頼んだ。——俺が作ったら食えるものにならん」


 麗華は碗を手に取った。鶏出汁の湯気が顔にかかり、温かかった。出汁は澄んでいて、鶏の旨みと葱の香りだけで成り立っている。甘みも辛みもない。ただ——温かい。


 麺を啜った。


 一口目で、目の奥がじんと熱くなった。


 美味しかった。宴の料理よりも、交渉の食卓よりも。この素朴な鶏出汁の麺が、今の麗華には——堪えた。


「……美味しい」


「そうか」


 暁風も自分の碗を取り、麺を啜った。二人で黙って食べた。虫の声と麺を啜る音だけが、夜の中庭に響いている。


 半分ほど食べたとき、暁風が箸を止めた。


「一つ、聞いていいか」


「どうぞ」


「あんたは——」


 暁風は碗を見つめたまま言った。


「本当に復讐がしたいのか」


 麗華の箸が止まった。


「交渉を見ていて思った。あんたは朝廷を追い詰めている。食糧を止め、条件を突きつけ、相手を動けなくしている。それは——復讐だろう」


「……」


「だが、あんたは民を飢えさせていない。市糧は止めていない。領民のために毎日働いている。復讐がしたいだけなら、そこまでする必要はない」


 暁風は顔を上げ、麗華を見た。


「だから聞きたい。あんたは本当に復讐がしたいのか。それとも——」


 言葉が途切れた。暁風自身、その先をどう言えばいいのか分からないようだった。


「それとも——何か、別のものが欲しいのか」


 月が雲を離れ、東屋に白い光が差し込んだ。


 麗華の顔が照らされた。琥珀色の瞳が月光を映し、光っている。


 笑みが——消えていた。


 麗華はいつも笑っている。穏やかな笑み、冷笑、皮肉な微笑み、余裕の笑み。どんなときも笑みを絶やさない。それが鳳麗華だ。


 だが今——笑みが消えていた。


 素の顔だった。


 二十歳の、疲れた女の顔。


「……分からないのよ」


 麗華は呟いた。碗を両手で包んだまま、鶏出汁の水面を見つめている。


「復讐がしたいのかと聞かれたら——したい。偽証で追い落とされた。三年間の後宮生活を否定された。悔しくないはずがない」


「ああ」


「でも——復讐のためだけに、毎日畑に出て、領民と話をして、穀物の出荷を調整して、交渉の食卓を整えて……それだけのことを、復讐だけではできない」


 麗華は碗から目を上げた。


「この国の食卓を——守りたいのかもしれない。馬鹿みたいでしょう。追い出された国の食卓を、なぜ守らなければならないの」


「馬鹿だとは思わん」


 暁風が即答した。


「え?」


「馬鹿だとは思わん。——立派だと思う」


 暁風の声は素朴だった。巧みな修辞も、含みのある言い回しもない。ただの率直な感想。


 麗華は暁風の顔を見た。


 暁風は真っ直ぐにこちらを見ていた。墨色の瞳が月光の中で静かに光っている。嘘がない目だ。この男は——本当に嘘がつけない。


(ああ。この人は——)


 胸の奥で、何かが揺れた。小さく。だが確かに。


 麗華は目を伏せた。鶏出汁の水面に自分の顔が映っている。笑みのない、素の顔。


「……ありがとう」


 小さな声だった。後宮で鍛えた品のある声ではなく、ただの——素の声。


「礼を言うことではない」


「いいえ。聞いてくれたことに、お礼を言っているの」


 麗華は碗を口に運び、残りの麺を啜った。暁風も箸を取り直し、食べ始めた。


 二人で黙って、夜食を食べ終えた。


 碗を空にした麗華が、漬物の最後の一切れを箸で取った。白菜の塩漬け。噛むとしゃきりと音がして、塩気が舌に広がる。素朴な味だ。それが今は、胸に染みた。


「——答えは、まだ出ない」


 麗華は東屋の柱に寄りかかった。


「復讐なのか、別の何かなのか。たぶん——両方あるのだと思う。きれいに分けられない」


「分けなくていいんじゃないのか」


「え?」


「両方あるなら、両方抱えて進めばいい。俺は——」


 暁風は言葉を探すように天井を見上げた。


「俺は、あんたがどっちの理由で動いていても、見ていることに変わりはない。監視役だからな」


 最後の一言に、麗華は——笑った。


 今度は、本物の笑みだった。冷笑でも余裕の笑みでもない。ただ可笑しくて、少しだけ救われて、こぼれた笑い。


「監視役ですか。便利な肩書きですね」


「肩書きがないと、理由が説明できん」


 暁風の耳が、月明かりの下でもわかるほど赤くなっていた。


 二人の間を、秋の夜風が通り過ぎた。冷たいが、不思議と寒くはなかった。


 麗華は碗を盆に戻し、立ち上がった。


「ごちそうさまでした。美味しかった」


「礼なら厨房の者に言え」


「いいえ。持ってきてくれたのは、陸将軍でしょう」


 麗華は東屋を出て、回廊に向かった。数歩進んで、振り返った。


 暁風はまだ東屋に立っていた。月光の中の長身の影。腕を組み、柱に寄りかかり、こちらを見ている。


「陸将軍」


「何だ」


「——おやすみなさい」


 それだけ言って、麗華は回廊の向こうに消えた。


 暁風は東屋に一人残った。


 空の碗が二つ、石卓の上に並んでいる。月明かりに照らされた白い碗。麗華が食べた碗には、鶏出汁が薄く残っている。


 暁風は長い息を吐いた。


(あの女が——笑みを消した顔を、初めて見た)


 東屋の石卓に手を置いた。麗華が座っていた場所の冷たさが、掌に伝わる。


(復讐か、それとも別の何かか。——あの女自身にも分からないのか)


 分からなくていい、と暁風は言った。自分でもなぜそう言ったのか分からない。だがあの瞬間、言わなければいけないと思った。


 月が雲に隠れ、東屋が暗くなった。


 暁風は盆を手に取り、厨房に戻った。


 碗を返し、仮宿に戻る途中、回廊で立ち止まった。麗華の書斎の灯りは——もう消えていた。


(今夜は眠れたか)


 暁風はそれだけ思い、仮宿の扉を閉じた。


 秋の夜は深く、鳳凰領は静かだった。月が雲を離れ、中庭を再び白く照らした。東屋の石卓の上には何もない。二人の夜食の痕跡は、もうどこにも残っていなかった。


 だが——何かが変わった。


 名前のない何かが、二人の間に芽吹いた夜だった。


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