暁風の報告
暁風は仮宿の机に向かい、筆を持ったまま固まっていた。
灯台の火が揺れ、壁に暁風の影を大きく映している。夜は深く、屋敷の外からは虫の声だけが聞こえてくる。秋の虫の声は夏より細く、どこか物寂しい。
報告書。皇帝への月例の密書だ。
鳳凰領に赴任して以来、暁風は月に二度、陛下に直接の報告を送っている。趙文昌を通さず、皇帝だけが読む密書。それが暁風に与えられた任務の核心だった。
机の上には硯と墨、筆が三本、そして白い紙が一枚。紙は上質な鳳凰領産のものだ。帝都の紙より厚みがあり、墨の乗りが良い。赴任当初は帝都から持参した紙を使っていたが、いつの間にか鳳凰領の紙の方が書きやすいと感じるようになっていた。
(そういう小さなところから、馴染んでいくんだな)
暁風は筆を墨に浸し、紙に向かった。
『鳳凰領月報。使節到着後の状況について報告する——』
ここまではいい。事実の報告だ。
『正使・周鶴齢殿は温厚な人物であり、使節としての礼を尽くしている。副使・張文遠殿は戸部の実務官であるが、領地の内情に強い関心を示している——』
筆が止まった。
張文遠の「関心」を報告すべきか。あの男の目が農地の面積を測り、水路の構造を記憶し、領兵の数を数えていたことを——書くべきか。
書けば、張文遠が偵察目的であることを暗に示すことになる。それは趙文昌の意図を皇帝に伝えることであり、使節団への——いや、宰相への告発だ。
暁風は武人だ。政治の駆け引きは分からない。だが、嘘は書けない。見たものを見た通りに書く。それが暁風の報告の原則であり、皇帝が暁風を信頼する理由でもあった。
(事実だ。事実を書けばいい)
暁風は筆を動かした。
『張副使は巡検中、農地の規模、水路の整備状況、領内の人口に関して詳細な質問を行った。記録係に指示し、数字を記録させている様子であった。その関心は交渉に必要な範囲を超えている可能性がある——』
一行書いて、読み返した。
(「可能性がある」——これは事実ではない。推測だ)
暁風は最後の一文を墨で消した。推測は書かない。事実のみ。
筆を置き、茶碗を手に取った。鳳凰領の茶だ。ここに来て半年、毎日この茶を飲んでいる。最初は「茶は茶だ」と思っていた。だが今は——帝都で飲んでいた茶がどれほど薄かったか、分かってしまった。
(帝都の茶には、もう戻れんな)
ふと、鳳凰領に来た初日のことを思い出した。麗華が最初に出してくれた茶。暁風は碗を一気に飲み干し、「茶は茶だ」と言った。あの時の麗華の目——呆れているようで、どこか面白がっているような。
今の暁風が同じことをしたら、おそらく笑われるだろう。「陸将軍、あの頃とは随分変わりましたわね」と。
(変わったのか、俺は)
暁風は茶を一口飲み、報告書に向き直った。
『鳳凰領の食糧事情は安定している。秋の収穫は順調に終了し、冬の備蓄は十分である。領民の食事は質・量ともに充実しており、飢餓の兆候は一切認められない——』
書きながら、暁風は気づいていた。
この報告書を読んだ皇帝が、何を思うかを。
帝都は飢えかけている。皇帝自身が雑穀粥を啜っている。その皇帝に「鳳凰領は豊かで、領民は幸せに暮らしている」と報告する。
それは事実だ。嘘はない。だが——
(この報告は、誰の味方だ)
鳳麗華に国を害する意思はないと——書きたかった。
筆が紙に触れ、最初の一画を引いた瞬間に止めた。
『鳳麗華に国を害する意思はないと思われ——』
そこまで書いて、暁風は筆を持ち上げた。
(違う。これは報告ではない。俺の個人的な判断だ)
その一文を墨で消した。二度目だ。一通の報告書で二度も文を消すのは初めてだった。
暁風は深く息をつき、報告書を最初から読み返した。
事実のみ。推測も判断も排除した、純粋な事実の羅列。
——鳳凰領は豊かである。
——領民は安定している。
——麗華は毎日領務に励んでいる。
——使節は歓迎を受けた。
——食糧は充足している。
一つ一つは中立的な事実だ。だがそれらを並べると、一つの像が浮かび上がる。
鳳麗華は正しいことをしている。朝廷は間違えた。
暁風はその像に気づいていなかった。いや——気づきたくなかった。気づいてしまえば、自分が「監視役」として何をしているのか、その意味が根底から揺らぐ。
報告書を封じた。蝋で封をし、皇帝だけが開ける印を押す。蝋の熱が指先を焼いたが、暁風はそれを気にしなかった。
報告書を懐に入れ、明朝の便で帝都に送る。この密書を読んだ皇帝が何を思い、何を決断するのか——それは暁風の預かり知るところではない。報告するのが任務であり、判断するのは陛下だ。
筆を洗い、墨を片付け、暁風は机から離れた。
窓を開けた。秋の夜気が部屋に流れ込む。月が出ていた。満月に近い、丸い月だ。その月明かりの下、屋敷の中庭が銀色に浮かび上がっている。
中庭の隅に、灯りが見えた。
麗華の書斎だ。夜更けのこの時間にまだ灯りがついている。交渉の段取りを練っているのだろう。
(あの女は、いつ休んでいるんだ)
暁風は窓枠に手をかけたまま、その灯りを見つめていた。
監視役として——あの灯りが消えるまで見届けるのが任務だ。それだけだ。それ以上の意味はない。
だが暁風は窓を閉めなかった。しばらく、その灯りを見つめていた。
あの灯りの下で、鳳麗華は何を考えているのだろう。交渉の段取りか。朝廷への対抗策か。それとも——
(余計なことを考えるな)
暁風は自分に言い聞かせ、窓を閉めた。寝台に横になった。
目を閉じても、報告書の消した二つの文がまぶたの裏にちらついた。
(事実を書いた。事実だけだ。——それでいいはずだ)
虫の声が遠くなり、暁風はやがて浅い眠りに落ちた。
机の上には、封じた報告書が一通。
墨で消した二つの文。一つは張文遠への疑念の推測。もう一つは、鳳麗華への擁護。どちらも暁風の本心だった。だが本心を書くのは報告ではない。暁風にはそのけじめがある。
けじめがあるからこそ——事実だけを書いた。
そしてその事実が、結果として麗華の正しさを証明している。暁風は気づいていない。報告書を読む皇帝だけが、おそらく気づくだろう。
仮宿の灯台が風に揺れ、暁風の寝顔に影が落ちた。
その筆跡には、暁風自身が気づかない迷いが——確かに、滲んでいた。




