表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
43/225

裏の指令書

 春蘭しゅんらん麗華れいかの書斎を訪ねたのは、宴の翌朝のことだった。

 まだ日が昇りきらない時刻。書斎の窓から薄紫の空が見え、庭の木々が朝露で濡れている。遠くで鶏が鳴き、領内の朝が始まる気配がゆっくりと広がっていた。


 麗華は書卓に向かい、昨夜の宴での使節の反応を振り返りながら、交渉の組み立てを練っていた。傍らには茶が一杯。朝の冷気を追い払う温かい碧螺春へきらしゅんだ。茶葉の清涼な香りが、まだ眠気の残る頭をすっきりと目覚めさせてくれる。


 書卓には昨夜のうちに書き始めた交渉の骨格図が広げてある。条件の提示順序、想定される反論、それに対する再反論——麗華の細い筆跡が紙面を埋め尽くしていた。


「お嬢様」


 春蘭が入室し、静かに扉を閉めた。その足音は猫のように静かで、廊下の板すら軋ませない。後宮時代に培った技術だ。


「張侍郎のお荷物を改めました」


「早いわね。夜のうちに?」


「はい。宴の後、張侍郎が書記官と密談している隙に。衣装箱の二重底に、密封の文書が一通」


 春蘭が懐から薄い紙を取り出した。写しだ。原本には触れず、墨跡を忠実に転写したものだろう。春蘭の諜報の腕は後宮時代から健在だった。


 麗華は写しを受け取り、灯台の明かりに翳して読んだ。


『交渉は予定通り進める。だが結果は急がぬ。重要なのは、鳳凰領に入ることだ。入れば見える。見えれば手が打てる』


 短い文面。だが筆致は趙文昌ちょう・ぶんしょうのそれだ。几帳面で角張った楷書。四十年の官僚人生が染み込んだ筆跡を、麗華は後宮時代に何度も目にしている。


「——やはりね」


 麗華は紙を卓に置き、茶を一口飲んだ。碧螺春の爽やかな渋みが、朝の頭を冴えさせる。


「交渉に本気はない。時間稼ぎと内情調査。趙宰相のやることはいつも同じだわ。後宮にいた頃も、政敵を潰すときは必ず先に情報を集めた。まず人を送り込み、弱みを探り、そこを突く。慎重だけれど——」


「慎重すぎて手遅れになる」


 春蘭が淡々と補足した。


「その通り。趙宰相は情報を集めている間に、状況が変わっていることに気づかない人だから」


 麗華は微笑んだ。


「密命書の内容は予想の範囲内よ。むしろ安心したわ。趙宰相がまだ私たちの内情を把握していないということですもの。地養術ちようじゅつの詳細も、市糧しりょうの流通経路も、商会との契約内容も——何も掴めていない」


「原本はそのままにしてあります。写しを取ったことに張侍郎が気づく心配は?」


「ないわ。春蘭の仕事に痕跡が残ったことは、今まで一度もないでしょう」


 春蘭の口元がかすかに緩んだ。主からの信頼は、この侍女にとって何よりの報酬だった。


「それで、どうされますか。副使を追い出しますか」


「いいえ。泳がせましょう」


 麗華は干しほしがきの器に手を伸ばした。秋の終わりに作った自家製の干し柿だ。表面に白い粉をまとい、中は琥珀色の柔らかな果肉。一つ摘んで口に入れると、凝縮された甘みがゆっくりと舌に広がった。


「知っていて泳がせた方が面白いのよ。張侍郎がどこを見て何を探るか——それを観察すれば、趙宰相が何を恐れているかが分かる。怖がっているものほど、目が向く。人間の習性よ」


「なるほど」


「それに、張侍郎にはたっぷり鳳凰領を見てもらいたいわ。見れば見るほど、帝都との差を思い知る。思い知った上で帝都に戻れば、趙宰相にも現実が伝わるでしょう。——伝わらなかったとしても、張侍郎本人の心が揺らぐ。それだけでも収穫よ」


 春蘭は頷いた。


「そもそも、密命書があるということは、この交渉に趙宰相は本気がないということ。正使の周大人は誠実な方だけれど、あの方に決定権はない。交渉の場で何を約束しても、帝都に持ち帰れば趙宰相が握り潰す。つまり——」


 麗華は干し柿をもう一つ摘みながら言った。


「この交渉は、そのままでは成立しない。成立させるには、こちらから仕掛けて流れを変える必要がある」


「仕掛ける、とは」


「交渉の席で、こちらから条件を出すのよ。朝廷が飲めない条件をね。飲めないと分かっていて出す。そうすれば——趙宰相は拒否する。拒否すれば『交渉を壊したのは朝廷の方だ』という事実が残る」


 春蘭が目を細めた。


「交渉を決裂させること自体が、お嬢様の狙いですか」


「半分はね。もう半分は——決裂の仕方を選ぶこと。こちらが一方的に門を閉じるのではなく、朝廷が自分から門を閉じたように見せる。そうすれば次の交渉で、主導権は完全にこちらに移る。『前回の交渉を壊したのはそちらでしょう?』——そう言えるのと言えないのでは、天と地の差がある」


 麗華は干し柿の最後の一欠片を口に入れ、指先を懐紙で拭いた。


「この甘さは帝都では味わえないのよ。干し柿一つ取っても、鳳凰領の果物がなければ作れない。趙宰相はそういうことが分からない人だから——」


 麗華は窓の外を見た。朝日が鳳凰領の田畑を照らし始めている。収穫を終えた田の切り株が朝霧の中に並び、次の季節の準備が静かに進んでいる。


「食べ物の重さが分からない人には、食べ物で教えてあげるしかないわ」


 春蘭は一つ頷き、書斎を出ていった。


 一人になった麗華は、趙文昌の密命書の写しをもう一度見つめた。


(趙宰相。あなたは『入れば見える』と書いたけれど——見せたいものを見せ、見せたくないものは隠す。それができるのは、迎える側の特権よ)


 碧螺春の茶がぬるくなっていた。麗華はそれを最後まで飲み干し、新しい紙を広げた。


 交渉の段取りを書き始める。提示する条件は三つ。一つ目は布石、二つ目は揺さぶり、三つ目が本命。料理と同じだ。前菜で場を温め、主菜で核心に入り、肉料理で決着をつける。


(交渉の席には食事を出しましょう。一品ずつ、料理が変わるたびに議題を変える。食べながらの交渉は、相手の警戒心を下げる。そして——美味しいものを食べている最中に突きつけられた条件は、空腹のときより断りにくいものよ)


 筆が紙の上を走る。条件の文言、提示の順番、想定される副使の反論とその切り返し。全てを書き出し、検討し、書き直す。


 窓の外で朝日が完全に昇り、書斎に陽光が差し込み始めた。鳳凰領の一日が始まる。


 麗華は筆を置き、背筋を伸ばした。


(さて。料理の仕込みを始めなくては。交渉の仕込みも、厨房の仕込みもね)


 書斎を出て、厨房に向かった。交渉の食卓に並べる料理の指示を出すために。


 鳳麗華にとって、食と戦略は——常に、一つの卓の上にあるのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ