春の種蒔き
春が来た。
鳳凰領に——春が来た。
朝靄の中、麗華は畑に立っていた。暁風が隣にいる。
二人の前に広がるのは、かつて荒地だった辺縁部の土地。霊脈再生の後、少しずつ色を取り戻してきた大地だ。
まだ灰色が残っている。だが——茶色が増えた。そして所々に、微かな緑が覗いている。雑草だ。雑草が生えるということは——土が生きているということだ。名前も知らない小さな草が、硬い土を割って頭を出している。冬を越す力があるということだ。この土地は——死んでいない。
朝靄が畑の上を白く流れている。足元の土から湿気が立ち昇り、それが靄になっている。土が呼吸している証だ。麗華はその靄の中に立ちながら、深く息を吸った。冷たい空気の中に、かすかに土の甘い匂いがある。凍てついた土が溶け始めるとき特有の、春の匂いだ。
「種蒔きの季節ね」
「ああ」
麗華が屈み、土を手に取った。
指の間からこぼれる土は——冷たいが、死んではいなかった。微かに湿り気があり、ほんの少しだけ柔らかい。指先で揉むと、土の粒が崩れて、中から黒い腐葉土の層が覗いた。去年はなかった層だ。落ち葉や枯れ草が分解されて、土に養分が戻り始めている。
「生きているわ。この土」
「そうか」
「匂いがするの。死んだ土には匂いがないけれど——この土は、匂いがある。土の匂い。命の匂い」
暁風には分からない感覚だろう。だが暁風は頷いた。麗華が言うなら、そうなのだ。三年間の経験で学んだことがある——麗華の感覚は、間違わない。
「種を蒔けるわ」
暁風が鍬を手に取った。鳳凰領の農具だ。武人の手には似合わないが、この三年間で慣れた。最初は鍬の振り方も知らなかった男が、今では畝を作れるようになっている。鍬の柄は暁風の手に合わせて少し太く作り直してある。将軍の手には、普通の農具は細すぎるのだ。
「俺がやる」
「あら。私が蒔くつもりだったのに」
「畝を作るのは俺の仕事だ。種を蒔くのはお前の仕事だ」
「いつ決まったの、そんなこと」
「今」
暁風が鍬を振り下ろした。灰色がかった土が、ざくりと裂けた。その下から——もう少し暗い、湿った土が現れた。鍬を振る暁風の動きは、剣を振るうときとはまるで違う。剣は鋭く速い。鍬は重く、ゆっくりだ。だが暁風はどちらも全力で振る。それが——この男の生き方だ。
「……いい土だ」
「ええ」
暁風が畝を作り、麗華が種子を蒔いた。
冬小麦の種だ。鳳凰領の品種。百年間、鳳家が守り育ててきた穀物の種子。小さな粒の一つ一つに、百年分の知恵と努力が詰まっている。掌に載せると、種の重さが確かに感じられる。
一粒ずつ、丁寧に。溝に落とし、土を被せる。指先で土を軽く押さえ、種が風に飛ばないようにする。麗華の所作は丁寧で、後宮仕込みの優雅さが畑仕事にも滲んでいた。種を落とすたびに、指先で土を撫でる。「育ちなさい」と言うように。
畝を一列、また一列と進めていく。暁風が鍬を振り、麗華が種を蒔く。言葉は少ない。だが二人の動きには息が合っている。暁風が畝を作り終えると、麗華がすぐに種を蒔く。麗華が蒔き終えると、暁風が次の畝に移る。声を掛け合わなくても、二人の間に流れがある。
「待つだけね。あとは」
「ああ」
「待つことが——こんなにも穏やかだとは、思わなかったわ」
暁風が麗華を見た。
「お前は——いつも動いていたからな。止まることを知らなかった」
「今は?」
「今は——止まれるようになった」
「あなたのおかげよ」
「……俺は何もしていない」
「いてくれた。——それだけで十分よ」
種蒔きを終えた後、二人は畑の端に座った。
麗華が懐から包みを出した。竹の皮で包んだ握り飯。朝のうちに作っておいたものだ。竹の皮を開くと、白い米の上に胡麻が散らしてあり、ほんのりと温もりが残っている。
「握り飯を作ったの」
「おお」
握り飯。鳳凰領の新米で握り、中に梅干しを一粒。海苔は手に入らないから、胡麻を表面にまぶしてある。胡麻の香ばしい匂いが、春の風に乗って漂う。米粒がつやつやと光っていて、握り方が絶妙だ。固すぎず、崩れない。指の跡が柔らかく残っている。
暁風が握り飯を受け取り、一口齧った。
「……美味い」
「知ってる」
「何回聞いても同じだ」
「何回でも聞くわよ」
二人で握り飯を食べた。
素朴な味だった。白米と梅干しと胡麻。それだけ。だが——種蒔きの後に食べる握り飯は、どんな宮廷の宴よりも満ち足りていた。畑仕事で空いた腹に、米の甘みがしみわたる。梅干しの酸味が喉を潤す。胡麻が歯に当たって、小さく弾ける。口の中で米と梅と胡麻が混ざり合い、素朴で完璧な味になる。
暁風が二つ目の握り飯に手を伸ばした。麗華は黙ってもう一つ差し出した。三つ目も。暁風の食べっぷりを見ているだけで、麗華は幸せだった。この男が美味そうに食べる姿が——一番の報酬だ。
麗華も握り飯を食べた。自分で作ったものだが、畑の端で食べると味が違う。土の匂いと、春の風と、隣にいる暁風の体温。全てが調味料になっている。後宮の華やかな宴よりも、この畑の端の食事のほうが——ずっと豊かだ。
食べ終えた後、暁風が竹の皮を丁寧に畳んだ。食べ物を粗末にしない。それも麗華が教えたことだ。軍にいた頃の暁風は、食事を「燃料」としか思っていなかった。腹が膨れればいい。味は二の次。だが麗華の料理を食べるうちに、食べることの意味が変わった。今では——竹の皮一枚でも丁寧に扱う。
風が吹いた。
種を蒔いた畑の上を、春の風が渡っていく。まだ冷たさの残る風だが、その中にかすかに暖かい気配がある。冬と春の境目。凍った世界が溶け始める、あの柔らかな瞬間。
「暁風」
「ああ」
「芽が出るかしら」
「出る」
「根拠は?」
「お前が蒔いた種だからだ」
麗華は笑った。
「それは根拠にならないわ」
「俺にとっては十分な根拠だ」
二人は並んで畑を見つめた。
種を蒔いた。あとは待つだけだ。
待つことが——こんなにも穏やかだとは。
春の陽射しが二人の背中を温めている。畑の土から立ち昇る湿気が、靄のように漂っている。遠くで鳥が鳴き、近くで虫が動き始めている。全てが——春の始まりを告げている。




