鳳凰領の帰還
暁風が鳳凰領に到着したのは、麗華が帰還してから二日後のことだった。
禁軍の引き継ぎを済ませ、鳳凰領守将としての赴任。馬一頭と荷物一つ。暁風らしい身軽さだった。荷物の中身は替えの衣と剣の手入れ道具。それだけだ。余計なものは持たない。持ったところで使わない。暁風にとって必要なものは、常に手の届く場所にある。
鳳凰領の門が見えた。
暁風は馬の歩を緩めた。
初めてこの門をくぐったのは——三年前。監視役として。皇帝の命令で、廃妃を監視するために送り込まれた。
あの日の暁風は、鳳麗華を「危険な反逆者」だと思っていた。廃妃になった名門の令嬢が、復讐のために何かを企んでいる。それを監視し、報告するのが任務だった。門をくぐる前に、暁風は剣の柄に手を添えていた。警戒していた。何が出てくるか分からない。「微笑みの貴妃」と恐れられた女だ。
門をくぐったとき見たのは——畑で土まみれになりながら笑う女だった。深紅の裳裾を泥だらけにして、鍬を振るう姿。髪は乱れ、額には汗が光り、爪の間には土が詰まっていた。あの日の衝撃は、今でも胸に残っている。
三年間で、全てが変わった。
監視役から信頼へ。信頼から恋慕へ。恋慕から告白へ。告白から伴侶へ。
そして今——帰る場所として、この門をくぐる。
門の前に、麗華が立っていた。
深紅の交領袍ではない。普段着の藍染めの袍。袖を短く仕立て直したもの。腕まくりをしている。
——料理をしていたのだろう。袖口に粉がついている。髪は簡素な銀の簪一本で纏めて、襟元に汗が滲んでいる。頬に粉が一つ付いている。本人は気づいていない。
「おかえりなさい」
麗華が微笑んだ。
その笑みを見た瞬間、暁風の胸が熱くなった。三年前、初めてこの門をくぐったとき——麗華は暁風を「監視役」として迎えた。冷静な微笑みで、一歩の隙も見せなかった。今の笑みは違う。刃がない。警戒がない。ただの——「おかえりなさい」だ。
暁風は馬を降り、門の前に立った。
「ただいま」
その言葉を口にして——暁風は気づいた。
(ここが——俺の家になるのだな)
生まれた陸家は、暁風にとって居場所ではなかった。次男として軍に送られ、家族への愛着は薄い。兄は家督を継ぎ、父は暁風を「軍で名を立てろ」と送り出した。それきりだ。幼い頃の記憶に温もりはない。食卓は形式的で、父は無言で食べ、母は兄にだけ菜を取り分けた。暁風はいつも端に座り、黙々と飯を口に運んでいた。
禁軍の宿舎は寝泊まりする場所ではあったが、家ではなかった。硬い寝台と粗末な寝具。夜は巡回の足音が廊下に響く。そこに「帰る」という感覚はなかった。任務を終えて戻る場所。それだけだ。
鳳凰領が——初めての「帰る場所」だ。
「暁風? どうしたの。門の前で固まって」
「……いや。何でもない」
「嘘つき」
「嘘じゃない。——ただ」
「ただ?」
「ここが家になるのだと思って。——少し、感慨がある」
麗華が笑った。温かく、からかうような笑い。目尻が細まり、口元が柔らかく上がる。
「三年前にもこの門をくぐったでしょう。あの時は監視役として」
「ああ」
「あの時と——気分は違う?」
「全然違う」
「何が違う?」
「……あの時は任務だった。今は——帰ってきた」
麗華の目が潤んだ。
「おかえりなさい。暁風」
「ああ。——ただいま」
二人は門をくぐった。
鳳凰領の風が吹いた。土と緑と——麗華の料理の匂いがする風。厨房の方角から、鶏を蒸す湯気と蕪を煮る甘い香りが漂ってきている。蕪の甘い匂いの中に、生姜の辛みがわずかに混じっている。
「暁風。夕飯を作ったわよ」
「何を」
「鳳凰領の歓迎の膳。鶏の蒸し物と、蕪の煮物と、新米の白飯。それから——」
「粥は」
「粥?」
「最初に食べたのが、お前の粥だった。——あれを」
麗華が目を丸くした。
「覚えていたの」
「忘れるわけがない」
「……あの時の粥は、監視役に出す最低限の食事のつもりだったのよ。米と水と塩だけの、何の工夫もない粥」
「それが美味かった」
麗華は暁風を見つめた。この男は——本当に変わらない。三年前も今も、美味いものを食べたときの表情が同じだ。箸が止まり、目が僅かに見開かれ、それから黙々と食べ続ける。語彙は増えない。「美味い」の一言で全てを片づける。だがその一言の重みは——三年間で、麗華にとってかけがえのないものになっていた。
「あなたは本当に——語彙がないわね」
「美味いものを美味いと言って何が悪い」
麗華は笑った。
「分かったわ。粥も作る。——お帰りの粥を」
二人は屋敷に入った。
厨房から湯気が立ち昇っている。鶏の蒸し物の香り。蕪の甘い匂い。新米が炊ける湯気。鳳凰領の厨房は、帝都のどんな高級店より——温かい匂いがする。その匂いの中に暁風の居場所がある。
麗華は厨房に入り、粥を炊き始めた。米を研ぎ、水を量り、鍋を火にかける。暁風は厨房の入口に立ち、その背中を見ていた。麗華が料理をする姿を見るのが好きだった。包丁の音、鍋を振る音、匙で味を見る仕草——全てが無駄なく美しい。後宮仕込みの所作は、厨房でも変わらない。
「暁風。見ていないで、薪をくべてくれない?」
「ああ」
暁風が竈に薪をくべた。火が跳ね、粥の鍋がふつふつと音を立て始める。米の匂いが立ち昇る。
やがて粥が炊き上がった。白い粥に、塩をひとつまみ。それだけの粥だ。
暁風が一口食べた。箸が——いや、匙が止まった。
「……美味い」
「知ってる」
「何回聞いても同じだ」
「何回でも聞くわよ」
暁風はその匂いを吸い込んで——微笑んだ。
不器用で、ぎこちない笑みだった。だが——心からの笑みだった。この男がこんなふうに笑うことを、三年前の暁風は知らなかった。軍の粗食しか知らなかった男が、食べることの喜びを知った。それは——麗華が教えたことだ。
鳳凰領の門が見えた。暁風が微笑んだ。麗華も——微笑んだ。




