春蘭の忠節
老太爺を見舞った翌日。
麗華は屋敷の廊下を歩いていた。鳳凰領の朝は清々しい。帝都とは違う、土と緑の匂いがする空気。早朝の光が廊下の板張りに落ち、磨かれた木目を浮かび上がらせている。廊下の板は古いが、よく手入れされている。春蘭が留守の間も欠かさず磨いていたのだろう。板を踏むたびに、かすかに蜜蝋の匂いがした。
「お嬢様」
春蘭が後ろから声をかけた。足音を立てずに近づくのは、さすがの技だ。後宮で身につけた気配を消す技術が、何年経っても衰えていない。
「何かしら」
「お時間をいただけますか。少しだけ」
麗華は振り返った。春蘭の表情は——いつもと少し違っていた。普段の切れ者の侍女頭ではなく、もう少し柔らかい顔だ。目元の力が抜けている。唇の端が微かに緩んでいる。春蘭がこういう顔をするのは珍しい。大抵は完璧な微笑みか、冷静な無表情か、毒舌を吐く前の不穏な笑みか——どれかだ。
「もちろん。どうぞ」
二人は縁側に腰を下ろした。庭の梅の木が——春の準備をしている。蕾がふくらみかけ、枝先に小さな桃色が覗いていた。その奥では鳥が囀り、朝日が庭石を温め始めている。石の表面に朝露が残っていて、光を受けてきらきらと輝いている。庭の隅には苔が生え、その緑が朝の光の中で鮮やかに浮かび上がっている。
「お嬢様。改めて——おめでとうございます」
「何が?」
「暁風様との……」
「ああ。——ありがとう。春蘭」
「それから——名誉回復。霊脈再生。全て……お見事でした」
春蘭が深く頭を下げた。見慣れた仕草だが、今日はいつもより長かった。頭を下げたまま、背中が微かに震えている。
「お嬢様。私は——これからもお仕えいたします」
麗華は春蘭を見た。
「春蘭」
「はい」
「あなたは——ずっとそばにいてくれたのね」
春蘭が顔を上げた。目の縁がまた赤くなっている。
「後宮を追われた日から。鳳凰領に帰った日から。食糧戦略の裏方も、帝都との連絡も、情報収集も——全部、あなたがやってくれた」
あの日々を思い出す。廃妃として後宮を追われた夜、馬車の傍で目を赤くしながらも毅然と立っていた春蘭。他の侍女は全員、後宮を出る前に暇を取った。残ったのは春蘭だけだった。鳳凰領に帰還してから、朝廷の動向を手紙一つで把握し続けた春蘭。暁風の直訴すら、いち早く察知して知らせてくれた春蘭。徹夜で政務をする麗華の傍に、黙って茶を置いていった春蘭。
「当たり前でございます」
「当たり前ではないわよ。——廃妃についていく侍女なんて、普通はいない。他の侍女は全員、後宮を出る前に暇を取ったわ」
「普通の侍女ではございませんので」
麗華は笑った。
「ええ。本当に。——あなたは時々、私より怖い」
「恐れ入ります」
春蘭の唇が微かに上がった。それは——誇りの笑みだった。主より怖いと言われて、侍女として喜ぶべきかどうかは分からないが、春蘭にとっては褒め言葉だ。
二人は並んで縁側に座っていた。朝日が庭を暖め、梅の蕾が光を受けてかすかに輝いている。鳥の声が高くなった。冬の間は静かだった庭に、少しずつ命が戻っている。
春蘭が言った。
「お嬢様。一つだけ——お願いがあります」
「珍しいわね。春蘭がお願いなんて」
「はい。滅多にないことです」
「何かしら」
「暁風様と——どうか、末永くお幸せに」
麗華は目を丸くした。
「……春蘭。あなた、泣いているの?」
「泣いておりません。花粉でございます」
「梅はまだ咲いていないわよ」
「先走りの花粉でございます」
「春蘭」
「はい」
「先走りの花粉は——何の花?」
「……梅です」
「咲いていないと言ったでしょう」
「蕾から漏れ出しているのでございます」
麗華は声を上げて笑った。春蘭の顔は平静だが、目の縁は確かに赤い。鼻の先も僅かに赤くなっている。泣いていないと言い張るのが春蘭らしい。泣いてもいいのに。ここには二人しかいない。
麗華は笑いながら、春蘭の肩に手を置いた。春蘭の肩は細いが——硬い。いつも背筋を伸ばしている人の肩だ。三年間——いや、後宮の時代から数えればもっと長い間、この肩は麗華を支え続けてきた。
「春蘭。ありがとう。——これからもよろしくね」
「もちろんでございます。お嬢様がお嬢様である限り——私はここにおります」
春蘭が頭を下げた。
その背中は、かつてと何も変わらない。後宮にいた頃から。廃妃になった日から。鳳凰領に帰った日から。食糧戦略を支えた日々から。帝都に戻った日から。一度も——この背中は揺らがなかった。
ずっと——変わらない。
それが、どれほど稀有なことか。麗華は知っている。策略も知略も必要のない、ただの忠節。一番シンプルで——一番強い力だ。暁風の愛も、翠微の成長も、承乾の覚悟も——全てが麗華を支えてきた。だが最も古く、最も変わらない支えは、この侍女の忠節だった。
「春蘭」
「はい」
「お茶を淹れましょうか」
「私が淹れます」
「いいの。今日は——私が淹れたい」
春蘭が目を丸くした。麗華が自分で茶を淹れると言うのは、珍しいことだった。普段は春蘭が淹れる。茶を淹れるのは侍女の仕事だ。だが今日は——違う。
麗華は台所に立ち、丁寧に茶を淹れた。鳳凰領の緑茶。祖父が好んだ品だ。湯の温度を指先で確かめ、茶葉に注ぐ。八十度。緑茶は熱すぎると苦みが出る。祖父に教わったことだ。澄んだ緑の液体が茶碗に満ちていく。新茶の香りが台所に広がった。青い草と、僅かな花の気配。鳳凰領の土壌で育った茶葉にしかない、独特の深みがある。
二人分の茶碗に注ぎ、縁側に戻った。
「どうぞ」
春蘭が茶碗を受け取った。両手で丁寧に。一口飲んで——微かに微笑んだ。
「……お嬢様。腕を上げましたね」
「あら。元からよ」
「以前はもう少し苦かったですが」
「人のせいにしないの」
「お湯の温度が高すぎたのでございますよ。——今日は、ちょうどよろしゅうございます」
「祖父様に教わったの。八十度がいいって」
「なるほど。——旦那様の淹れ方ですね。確かに、この味は」
春蘭が茶碗の中をのぞき込んだ。澄んだ緑の液体が、朝日を受けて翡翠色に光っている。
「美しいお茶でございます」
「そう。——あなたに飲んでほしくて、練習したの」
「……お嬢様」
「内緒よ」
二人は笑った。
縁側に茶の香りが漂っている。梅の蕾が、もう少しで開きそうだった。春の気配が、庭のあちこちに満ちている。風が温かい。鳥の声が近い。
春蘭の忠節は——一番シンプルで、一番強い力だった。




