翠微の旅立ち
翠微が旅立つ日が来た。
帝都を発つ前に、翠微は麗華のもとを訪れた。
「先生」
「翠微。——準備はできた?」
「はい。荷物はこれだけです」
翠微が背負っているのは、小さな行李一つと、鳳凰領の土を入れた布袋。布袋の口からは、湿った土の匂いが微かに漏れている。故郷の匂いだ。土の匂いは、翠微にとって一番の安心の源だった。見知らぬ土地で眠れない夜も、この匂いを嗅げば眠れる。
「ずいぶん身軽ね」
「農家の娘ですから。着替えと食料があれば十分です。あと、先生に貰った術の手引きと、おにぎり三つ」
「おにぎり?」
「春蘭姐さんが持たせてくれました。三日分の握り飯。梅干し入りと、胡麻塩と、味噌」
麗華は微笑んだ。春蘭らしい気遣いだった。三種類の味を用意するのは、旅の途中で飽きないようにという計算だろう。春蘭は——こういうところに、気が回る。
翠微は麗華の前に正座した。背筋を伸ばしている。かつてはすぐに姿勢が崩れた翠微が、今は真っ直ぐに座っている。膝を揃え、手を膝の上に置き、顎を引いている。春蘭に何度注意されても直らなかった正座が——いつの間にか、身についていた。
「先生。あたし——東の果てまで行ってきます」
「東の果て?」
「はい。瑛朝の東端に、まだ調査が済んでいない霊脈があるんです。そこを調べて、修復が必要なら修復して——それから南を回って、西の端まで」
「一人で?」
「最初は一人です。でも——各地で仲間と合流します。伝承式で学んだ弟子たちが、もう各地にいますから」
麗華は翠微を見つめた。
農家の三女だった少女が、一人で瑛朝の果てまで旅に出る。霊脈を修復し、地養術を広め、新しい術者を育てる旅に。あの日——「あたしは名門じゃないし、字もろくに読めません。でも、土の声は聞こえます」と言った少女が。あれから何年経っただろう。翠微の手は、今ではしっかりと節くれだっている。鍬を振り、土を掘り、霊脈を繋いだ手だ。小さいが——力強い手だ。
「翠微」
「はい」
「あなたに——一つだけ、贈り物をしたいの」
麗華が卓の下から、小さな箱を取り出した。桐の箱で、蓋に鳳家の紋が焼印されている。木目が細かく、手に持つと軽い。だが——中身の重さは、別だ。
開けると——銀の簪が入っていた。
素朴な作りだが、先端に小さな翡翠が嵌め込まれている。光に翳すと、翠微の地養術と同じ色——深い翠の光が宿っていた。翠の中に微かな金が混じり、光の角度によって色が変わる。まるで生きているかのように。
「これは——」
「私の母の形見よ。母は早くに亡くなったから、私の手元にある形見はこれだけ」
「先生……そんな大事なものを——」
「あなたに持っていてほしいの。旅の途中で——困ったとき、迷ったときに。この簪を見れば、思い出すでしょう。あなたには師がいると」
翠微の目から涙がこぼれた。堪えようとして——堪えきれずに、頬を伝っていく。鼻の頭が赤くなっている。唇を噛んで堪えようとしているが、次から次へと涙が溢れてくる。
「先生……」
「泣かないの。——あなたはもう、一人前の術者よ」
「泣いてません。目から汗が出てるだけです」
「それは嘘ね」
翠微が笑った。涙を拭いながら。袖で顔をごしごしと拭う仕草は、初めて会った日と変わらない。名門の所作は身につかなかったが——それでいい。翠微は翠微だ。春蘭が何度「お嬢様の前ではもう少し上品に」と言っても、翠微は結局こうやって袖で顔を拭う。そしてそれが——翠微の良さだ。飾らないこと。素朴であること。土に触れる者は、土のように正直でなければならない。
「ありがとうございます。大事にします」
翠微は簪を受け取り、髪に挿した。三つ編みの結び目に、翡翠の光が揺れた。朝日を受けて——まるで小さな星のように瞬いている。翠微の黒髪に翡翠の緑が映えて、不思議と似合っている。農家の娘の素朴な髪に、名門の形見の簪。似合わないはずなのに——翠微が挿すと、それが当然のように見える。
「先生」
「何」
「あたしは——先生よりもっと遠くの土地を治してきます。先生が鳳凰領で守ったものを、あたしが瑛朝中に広げます」
麗華の胸が熱くなった。この子に出会えたことが——どれほど幸運だったか。鳳凰領の畑で、偶然に霊脈を感じた少女。あの日、もし翠微が別の畑にいたら。もし麗華が別の道を回っていたら。この出会いはなかった。
「ええ。——行きなさい」
「先生の真似はしません。あたしは、あたしのやり方で——」
「分かっているわ。——だからこそ、あなたに任せるの」
翠微が深く頭を下げた。長い沈黙があった。頭を下げたまま、翠微の肩が小さく震えている。声を殺して泣いている。麗華にはわかった。この子はいつも、大事な場面で泣く。悲しいからではない。嬉しいからでも、寂しいからでもない。——感情が溢れるからだ。土の声を聞ける者は、自分の心の声も聞こえてしまうのだ。
そして——立ち上がった。
小さな行李を背負い、翡翠の簪を揺らして。顔を上げたとき——目は赤かったが、口元には笑みがあった。鼻の頭がまだ赤い。涙の跡が頬に残っている。だがその顔は——晴れやかだった。
「行ってきます、先生」
「行ってらっしゃい。——身体に気をつけて。ちゃんと食べなさいよ」
「はい! あたし、食べることだけは得意ですから」
翠微が笑い、振り返らずに歩き出した。
麗華は翠微の背中を見送った。
小さな背中が——遠ざかっていく。かつて鳳凰領の畑で、霊脈を初めて感じて目を輝かせた少女。「土がお腹すかせてます」と言った少女。術の修行で何度も失敗して、悔しくて唇を噛んだ少女。麗華に「それじゃ駄目です」と真正面から言った少女。荒地化した土地の悲鳴に耐えながら、霊脈を繋ぎ直した少女。その少女が——今、一人で世界に出ていく。
門を出る直前、翠微が一度だけ振り返った。
遠くから——手を振った。大きく、力強く。
麗華も手を振り返した。
翠微が笑い、今度こそ振り返らずに走り出した。小さな背中が朝日の中に溶けていく。行李が背中で揺れ、翡翠の簪が光を弾いている。
麗華は目を細めた。
「行きなさい。あなたの術で、世界を——」
声は届かなかったかもしれない。
だが翠微の背中は、真っ直ぐだった。




