玉蘭と麗華
帝都を発つ前日。
麗華は玉蘭と最後の面会をした。
場所は帝都の茶館。庶民の店だが、静かで落ち着いた空間だった。壁に掛けられた墨絵が色褪せていて、卓は使い込まれて飴色に光っている。天井の梁が低く、窓は小さい。薄暗い店内に、茶の湯気が白く漂っている。喧騒から離れた奥座敷を選んだのは、春蘭の手配だった。
卓を挟んで座る二人。茶が運ばれてきた。鉄観音の香りが、湯気と共に立ち昇った。深い焙煎の香りが鼻腔を満たし、その奥にかすかな花の気配がある。茶館の主人は、二人が誰であるかを知らない。知らないほうがいい。ここでは——ただの、女二人だ。
玉蘭が口を開いた。
「明日、鳳凰領に帰るのですね」
「ええ」
「おめでとうございます。暁風様と——」
「ありがとう。……でも、あなたに祝われるのは、不思議な気分ね」
「そうでしょうね」
二人は微笑んだ。薄い笑みだったが、作り物ではなかった。
沈黙が落ちた。だが居心地の悪い沈黙ではなかった。茶館の奥で主人が茶器を洗う音が、静かに響いている。磁器が触れ合う澄んだ音。湯を注ぐ柔らかな音。その音が、二人の間を流れる沈黙を穏やかにしていた。
麗華は茶碗を手に取った。掌に伝わる温もりが心地よい。鉄観音の色は深い琥珀——自分の瞳と同じ色だ。
「鳳麗華」
「何かしら」
「私はあなたが——憎かった」
玉蘭の声は穏やかだった。かつての甘えるような口調ではない。袖口で口元を隠す仕草もなかった。その手は、卓の上で静かに組まれている。指先は赤く荒れていて——鍬を握った跡が残っている。
「後宮であなたを見るたびに思っていました。どうしてこの人はこんなに強いのだろうと。蘇家の命令で動く自分が惨めで、自分の意志で戦うあなたが羨ましくて——それを認めたくなくて、憎しみに変えていました」
麗華は黙って聞いていた。茶碗を手にしたまま、一口も飲まずに。
「偽証をしたのは事実です。蘇家の命令だったと言い訳はしません。——でも、あの時、心のどこかで思っていました。この人がいなくなれば、自分の惨めさを突きつけられずに済む、と」
「……」
「醜い話ですね」
「いいえ。——正直な話よ」
麗華は茶碗を持ち上げた。鉄観音の琥珀色が、光に透けている。
「私もね、あなたのことを……単純に嫌っていたわけではないの」
玉蘭が顔を上げた。潤んだ瞳——だが今度の潤みは演技ではなかった。涙が滲む前の、ぎりぎりの表情だ。
「あなたを見るたびに思ったわ。この人は——蘇家の駒にされなければ、どんな人になっていたのだろうと」
「……」
「名門の教育を受けた聡明な女性が、家の道具にされている。それを見て——怒りを感じていた。あなたにではなく、蘇家に」
玉蘭の目が揺れた。睫毛が震えている。瞳の奥に、長い間押し込めてきた感情が浮かんでいる。
「あなたが自分の足で立つ日が来ると——思っていたわ」
「……思って、くださっていたのですか」
「ええ。——時間はかかったけれど」
玉蘭の手が微かに震えた。卓の上で組んだ手を、ぎゅっと握りしめている。荒れた指先が白くなるほど、強く。
「蘇家の旧領に種を蒔きました」
「聞いたわ」
「手が——水膨れだらけになりました。後宮の手ではないですね、もう」
玉蘭が手を差し出した。確かに——赤く腫れた指に、水膨れの跡がいくつも残っている。爪の間に土が入り込み、洗っても取れなくなっている。琴を弾いていた指。偽証の書類に署名した指。今は——土を掘る指だ。
「いい手よ。農家の手だわ」
玉蘭が笑った。涙を浮かべながら。今度の涙は——左目からも右目からも、同じように流れていた。かつて後宮で流した涙は、いつも片目だけだった。泣き顔の美しさを計算して、涙の量を調整していた。今は——そんな技術は使えない。使う必要もない。
「和解——とは、違いますよね。これは」
「違うわね。許すとか許さないとかではない。——私たちは、それぞれの道を歩く。ただ、それだけ」
「はい」
「でも——認めるわ。あなたが自分の足で立ったことを」
「ありがとうございます」
「お礼はいらないわ。——お茶のお代は払ってね」
「え」
「嘘よ」
二人は微笑んだ。
友人にはならない。なる必要もない。だが——互いが互いの道を歩んでいることを、認めている。それで十分だった。かつて後宮で向き合っていた二人は、敵だった。今は——敵でも味方でもない。それぞれの道を歩む、二人の女だ。
茶館の主人が、新しい茶を運んできた。何も言わず、静かに卓の上に置いていく。気の利く主人だった。客の空気を読んで、邪魔をしない。茶碗から立ち昇る湯気が、二人の間をゆっくりと漂っていく。
茶を飲んだ。鉄観音の深い香りが口に広がった。苦みの奥に甘みがある。最初の一口は苦い。だが舌の上で転がしていると、奥から甘みが染み出してくる。この茶のように——二人の関係は、一言では表せない。苦さと甘さが入り混じっている。
玉蘭が茶碗を両手で包むように持ち、一口ずつ大事に飲んでいる。かつて後宮では、茶を飲む仕草すら計算していた。優雅に、美しく、皇帝の目を引くように。今は——ただ、温かいから飲んでいる。その変化が、麗華には分かった。
茶館を出るとき、玉蘭が振り返った。
外の光が玉蘭の横顔を照らしている。かつて「守ってあげたくなる脆さ」を武器にしていた女の顔に、今は別の美しさがある。日に焼けて、少し痩せて——だが目に力がある。自分の足で立つ人間の、静かな力だ。
「鳳麗華」
「何」
「鳳凰領の——お料理。いつか食べてみたいです」
「あら。それは——来ればいいじゃない」
「……行ってもいいのですか」
「食卓は誰にでも開いているわよ。——蘇玉蘭にも」
玉蘭の目から、涙がこぼれた。
今度の涙は——初めて、自分のための涙だった。蘇家のためでもなく。皇帝の寵愛のためでもなく。演技でもなく。ただ——嬉しくて、流れた涙。
二人は微笑んだ。もう何も言う必要はなかった。
茶館の暖簾をくぐり、帝都の雑踏に出る。人波が二人の間を通り過ぎていく。荷物を運ぶ商人。子供の手を引く母親。竹箒で道を掃く老婆。帝都の日常が、二人を包み込んで——やがて別々の方向へ運んでいく。
麗華は歩き出した。振り返らなかった。
玉蘭も歩き出した。反対方向へ。
二人の足音が、帝都の喧騒に溶けて消えた。




