皇帝の孤独
二人の辞令が出た日の夜。
承乾は一人で執務室にいた。
灯火が揺れる中、書机に向かっている。政務の書簡が山と積まれているが、筆は進んでいなかった。墨が硯の上で乾きかけている。穂先が硯の縁に置かれたまま、承乾の視線は書簡には向いていない。
窓の外に、帝都の夜景が広がっている。
少しずつ賑わいを取り戻す帝都。灯火の数が増え、夜市の声が届く。三年前——食糧危機の最悪期には消えかけていた明かりが、今は街路を照らしている。油売りの呼び声。子供の笑い声。屋台の炒め物の匂いが、風に乗ってかすかに漂ってくる。庶民の暮らしが、少しずつ色を取り戻している。鍋を叩く音が小気味よく響き、どこかの酒楼で二胡の音が流れている。
(それが——朕の成果だ)
承乾は窓辺に立った。
冷たい夜風が頬を撫でる。宮城は帝都で最も高い場所にある。ここからは、街の灯りが星のように見える。一つ一つの灯りの下に、食卓がある。家族が集い、食事をし、笑っている。その日常を守ること。それが皇帝の仕事だ。
二人のことを考えていた。
陸暁風と鳳麗華。
最も信頼する臣下と、かつての貴妃。二人が結ばれることを——自分は認めた。
辞令は二通。一つは暁風に鳳凰領守将の兼任を命じるもの。もう一つは麗華に鳳凰領国公の位を正式に授けるもの。二人が鳳凰領で共に暮らし、共に国を支える道を——承乾自身の手で開いた。
正しい判断だと、頭では分かっている。暁風は麗華のそばにいるべき人間だ。麗華は暁風のそばで初めて弱さを見せられる。二人が共にいることが——国のためにもなる。
合理的な判断だ。為政者として間違いはない。
暁風が麗華の料理を食べるとき、最初の一口で箸が止まる。あの顔を、承乾は知っている。暁風は味に感動すると言葉を失う。目が僅かに見開かれ、箸を握る指が止まり——そのまま黙々と食べ進める。同じ粥を食べても、承乾の前では暁風はあんな顔をしない。それが——全てだ。料理の味ではない。誰が作ったか、ということだ。
だが。
(朕は——寂しいのだな)
認めた。声に出さず、心の中だけで。
皇帝としてではなく、一人の人間として——寂しい。
かつて貴妃として手元にあった女は、今は別の男の隣にいる。最も信頼する臣下は、今は皇帝よりも一人の女を選んだ。
二人とも失ったわけではない。暁風は変わらず忠臣であり、麗華は国の協力者だ。だが——個人としての承乾には、もう誰も残っていない。
後宮に戻れば、嬪や女官がいる。だが玉蘭が去った後の後宮は、承乾にとって空虚な場所になっていた。誰も承乾を「承乾」として見ていない。皇帝としての自分に仕え、皇帝としての自分に寄り添う者はいるが——一人の若い男としての承乾に、言葉をかける者はいない。
玉座の周りには常に人がいる。百官が控え、侍従が仕え、護衛が寄り添う。朝には政務の報告が列をなし、昼には会議が途切れず、夜には上奏文が積み上がる。だがその誰一人として——承乾という一人の男の隣には立っていない。
(……それでいい)
自分に言い聞かせる。
(朕は皇帝だ。孤独は——皇帝の宿命だ)
父帝もそうだった。先帝は孤独な皇帝だった。母后に先立たれ、信頼できる臣下を一人また一人と失い、最後に残ったのは承乾だけだった。崩御の床で「鳳家を敵に回すな」と遺したとき、父帝の手は冷たかった。あの冷たさを、承乾は覚えている。
いつか自分も——あの冷たさの中で、一人で逝くのだろう。
だが——それでいい。民の食卓が温かければ。
書机に戻った。
政務の書簡を手に取る。各地からの復興報告。霊脈管理院の予算案。東部の農業支援計画。一つ一つに目を通し、朱筆で批を入れる。筆の穂先が紙の上を走る音だけが、静かな執務室に響いている。
これが——承乾の仕事だ。
華やかな食卓はなくても。隣にいてくれる人はいなくても。この国を治めること。民の食卓を守ること。それが——瑛承乾という人間の役割だ。
「陛下。夜食をお持ちしました」
侍従が膳を運んできた。
白粥と漬物。質素な夜食だが、承乾が自ら指示した内容だった。以前は夜更けまで政務をする際、趙文昌が手配した豪華な膳が出ていた。今は——自分で選ぶ。自分が食べるものくらい、自分で決める。その小さな自由が——承乾にとっては大きな変化だった。
膳を卓の隅に置く。白い粥に、緑の漬物が添えてある。蕪の浅漬けだ。塩加減は適度で、蕪の甘みが残っている。
——麗華が後宮にいた頃は、もっと手の込んだ夜食が出ていた。
そんなことを考えて、苦笑した。麗華が作る夜食は、粥一つでも違った。米の炊き加減。塩の量。薬味の添え方。全てに意味があり、全てが食べる者への気遣いだった。承乾が疲れているときは消化の良い薄粥に。風邪気味のときは生姜を多めに。そういう細やかさが——今は、ない。
粥を啜った。
温かかった。味は——何ということもない。宮廷の厨房の粥は丁寧に作られているが、麗華の粥とは違う。何が違うのかは分からない。ただ、違う。材料は同じはずだ。米と水。だが麗華の粥には——何かが入っていた。気配のようなものだ。食べた者の心を温める、目に見えない力。
(温かい。——それでいい)
窓の外に見える帝都は、少しずつ賑わいを取り戻していた。灯りの数が、半年前よりも確かに増えている。
それが——朕の成果だ。
二人への祝いの品を考えた。何がいいだろうか。
暁風には剣を贈ろう。良い鋼の、実用的な剣を。あの男は飾りものを嫌う。刃紋の美しい、だが実戦に耐える剣。暁風なら——その価値が分かる。鞘は黒漆で仕立て、柄には禁軍の紋と鳳凰領の紋を並べて彫らせよう。二つの忠義を両立する男にふさわしい剣だ。
麗華には——何がいい。
(……茶にしよう。鳳凰領の新茶ではなく——帝都の高級茶を。あの女が「苦い」と言った茶を)
意地悪ではない。——思い出を、贈るのだ。かつて私室で茶を飲み交わした日のこと。麗華が「苦いですね」と眉をしかめた顔。あの日、承乾は笑った。貴妃が苦い顔をするのが珍しくて、思わず声を出して笑ってしまった。麗華が「何がおかしいのですか」と怒った——振りをしたが、目の奥は笑っていた。あの頃の二人はまだ——別の関係だった。
もう戻れない。戻る必要もない。
だが——思い出だけは、形にして贈ることができる。
承乾は微笑んだ。
皇帝の微笑みは、執務室の灯火に照らされて——ほんの少しだけ、寂しかった。
だがその寂しさは、弱さではなかった。
孤独を引き受ける強さだった。玉座は一人で座るものだ。隣に席はない。だが——玉座の下に広がる食卓は、一人ではない。民の数だけの食卓がある。その全てを守る。それが承乾の孤独の意味だ。
(朕は良き君主になる。それが——お前への返答だ)
粥を食べ終え、筆を取った。
政務の書簡は、まだ山と積まれている。
夜は長い。だが——やるべきことは、たくさんある。
承乾は書簡に向き直り、朱筆を走らせた。窓の外で夜市の灯りが揺れている。その灯りの一つ一つが——承乾の守るべきものだった。




