将軍の地位
暁風が直訴したことを、麗華は翌日知った。
春蘭からだった。
「お嬢様。暁風様が——」
「知っているわ。……知ってしまった、が正しいわね」
春蘭が宮廷内の情報網で察知したのだ。暁風本人は何も言っていない。あの男らしい。大事なことほど自分では言わず、黙って行動で示す。告白のときもそうだった。食事の席で急に箸を置いて、真っ直ぐに麗華を見つめた。何を言うかと思えば、たった一言。「あなたのそばにいたい」。それだけだ。前置きも修辞もない。後宮で鍛えた麗華の言語感覚からすれば、あまりに素朴で——あまりに、真っ直ぐだった。
麗華は書院の執務室で、一人で考えていた。
(あの人が——皇帝に膝を折った)
暁風という男を、麗華はよく知っている。
嘘がつけない。言葉が足りない。感情を表に出すのが下手で、代わりに行動で示す。そして——一度決めたら、絶対に引かない。禁軍の将軍として千の兵を率いた男が、一人の女のために膝を折った。その重さが、麗華には分かる。
告白のときもそうだった。「ただ、あなたのそばにいたい」。あの不器用な言葉が、麗華の心を開いた。千の修辞を重ねた言葉より、あの一言のほうがずっと重かった。後宮で巧みな言葉ばかり聞いてきた麗華にとって、暁風の言葉は砂漠に降る雨のようなものだった。飾りがないからこそ、乾いた心に染みた。
今度は——皇帝の前で膝を折った。将軍が、女のために。
暁風が何を言ったかは、春蘭の情報網が正確に拾っている。「伴侶として、そばに立つことを許してほしい」。将軍の言葉としては——あまりに私的で、あまりに正直だ。政治的な駆け引きのかけらもない。損得を計算した跡もない。ただ——そうしたいから、そう言った。
(あの人は……本当に)
胸の奥が温かくなる。同時に、目頭がじわりと熱い。
書院の窓から午後の光が差し込んでいる。卓の上に広げていた霊脈管理院の人事書類が、陽に照らされて白く光っている。仕事の手が止まっていることに、麗華は今さら気づいた。
(鳳麗華。集中しなさい)
自分に言い聞かせてみる。無駄だった。暁風の膝をついた姿が——見てもいないのに、ありありと浮かぶ。鉄紺の軍袍。暗銀の胸当て。あの大きな体が、石畳の上で膝を折っている。
扉が叩かれた。
「麗華」
暁風だった。
「入って」
暁風が入ってきた。いつもの灰白の麻袍。正装の日とは違う、日常の姿。髪は後ろで一つに束ねて、革紐で結んでいる。暁風の表情は——平静を装っている。だが耳の先が僅かに赤い。あの耳は嘘がつけない。暁風の感情を最も正直に映す部位だ。
麗華は暁風を見た。
「聞いたわよ」
「……誰から」
「春蘭から。——あなた、何で自分で言わないの」
「……お前に心配をかけたくなかった」
「心配してないわよ。呆れているの」
「呆れ——」
「将軍が膝を折って——何て言ったの? 『伴侶として、そばに立つことを許してほしい』?」
暁風の耳が赤くなった。今度は先端だけでなく、全体が。首筋にまで赤みが広がっている。
「……大体そんなところだ」
「大体?」
「細かいところは——覚えていない」
「嘘つき。覚えているくせに」
暁風が目を逸らした。壁の書棚を見ている。何が書いてあるか読めているとは思えない。目線があちこちに泳いでいる。戦場では微動だにしない男が、こういう場面では途端に落ち着きをなくす。
(この不器用さが——たまらないのだけれど)
内心でそう思いながら、麗華は立ち上がり、暁風の前に立った。
「暁風」
「ああ」
「将軍の地位を捨てる気はないと言ったのね」
「ああ。捨てない」
「いいわ。捨てなくていい」
暁風が麗華を見た。真っ直ぐな目。戦場で敵陣を見据えるのと同じ目で——今は、麗華を見ている。
「あなたは将軍であり——私の大切な人。どちらも、捨てなくていい」
暁風の目が見開かれた。
「……お前が、そう言ってくれるのか」
「何を驚いているの。私はずっとそう思っていたわよ。あなたが将軍であることも、私のそばにいてくれることも——どちらも、あなたの一部なの。片方を切り捨てたら、あなたではなくなるわ」
暁風は黙って麗華の顔を見つめている。口元が微かに動いているが、言葉が出てこない。
「言ってくれなかった」暁風がようやく声を絞り出した。
「あなたが先に動くと思っていたから」
「……」
「やっぱり動いたわね」
暁風が苦笑した。不器用な笑みだったが、そこに安堵が滲んでいた。険しかった肩の線が少しだけ下がる。戦場から帰った兵が鎧を脱ぐような、そんな力の抜け方だった。
「お前には敵わん」
「当然よ」
麗華は暁風の手を取った。大きくて硬い手。胼胝と古傷だらけの武人の手だ。人差し指の付け根には弓弦の跡が白く残り、小指の側面には古い刀傷がある。手のひらは荒れていて、爪は短く切り揃えられている。武骨で、飾り気がなく——この上なく信頼できる手だ。三年間、この手が麗華を守ってきた。荒地化の脅威から。蘇家の刺客から。そして——麗華自身の弱さから。
「将軍として国を守りなさい。私は——鳳凰領の国公として国を支える。あなたはあなたの場所で、私は私の場所で。でも——」
「ああ」
「隣にいてくれる?」
「……当然だ」
暁風の手が、麗華の手を握り返した。大きな手。武骨で温かい手。麗華の手がすっぽりと包まれる。暁風の体温が、指先から伝わってくる。この温もりが——これからも、隣にある。
「暁風」
「ああ」
「承乾が答えを出す前に——一つだけ聞いていい?」
「何だ」
「もし承乾が許さなかったら、あなたはどうするつもりだった?」
暁風は一瞬黙り、それから——真っ直ぐに麗華を見た。迷いのない目。戦場で撤退の道が断たれたとき、前に進むと決めた兵の目に似ている。だがもっと穏やかだ。覚悟と——静かな確信に満ちている。
「それでも、お前のそばにいる。方法は変わるかもしれない。だが——離れない」
麗華の目が潤んだ。
「……本当に、不器用ね」
「ああ。自覚はある」
「でも——それが、いい」
二人は手を繋いだまま、しばらく立っていた。
窓の外から夕日の光が差し込んでいる。書院の書棚が赤く染まり、卓の上の文書が琥珀色に光っている。暁風の横顔にも夕日が当たり、鋭い顎の線と、まだ赤い耳が照らされている。この男の横顔を、毎日見るのだ。これからずっと。その事実が、麗華の胸に静かに、深く染み込んでいく。
身分の壁。将軍と国公。皇帝の臣下と廃妃だった女。
壁はある。だが——壊す必要はない。両立する道を、二人で切り拓けばいい。
麗華は暁風の手を握ったまま、窓の外を見た。帝都の屋根が夕日に染まっている。三年前、この街を食糧で詰ませた。今は——この街の食卓を支えようとしている。
同じ手で。同じ知略で。でも——もう、一人ではない。
それが——二人の選んだ答えだった。




