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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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暁風の直訴

 名誉回復の式典から三日後。


 暁風は宮城の奥、皇帝の私室の前に立っていた。


 正装だった。鉄紺の軍袍に暗銀の胸当て。肩当てには禁軍の雲雷紋が刻まれている。腰に長剣を佩き——額に汗をかいていた。


 戦場で汗をかくことはない。千の敵を前にしても平静でいられる。指揮棒を振り、矢雨の中を駆け抜け、敵陣を斬り崩してきた。そのときでさえ、手は震えなかった。血に濡れた刃を握り直す指は、常に安定していた。禁軍最強の将軍と謳われた男の手だ。


 だが今日は——手が震えていた。


 暁風は深く息を吸い、吐いた。白い息が宮城の冷たい空気に溶けた。廊下の窓から差し込む光が、石畳に長い影を落としている。この廊下を何度歩いたことだろう。監視役の報告のために。軍務の報告のために。いつも真っ直ぐに歩けた。だが今日は——足が重い。


 それから己の手を見下ろした。剣を握り続けてできた胼胝だらけの手。武人の手だ。この手で——今から、武人らしからぬことをする。


 扉が開いた。


「入れ」


 承乾の声。


 暁風は深く息を吸い、室内に入った。


 承乾が座っている。茶が用意されていた。湯気が細く立ち昇り、室内に茶の香りが漂っている。窓から差し込む午後の光が、承乾の横顔を柔らかく照らしていた。卓の上の硯には乾きかけの墨があり、書きかけの政務書簡が脇に積まれている。来客の前でも政務を止めなかったのだろう。——いや、暁風が来ることは分かっていて、それでも手を休めなかったのかもしれない。


「座れ」


「立ったままで」


「……そうか。では聞こう。何用だ」


 暁風は膝をついた。


 将軍が、皇帝の前で膝を折った。


 石畳が冷たかった。膝を通じてその冷たさが全身に伝わる。だが暁風は構わなかった。この冷たさが、今の自分にはちょうどいい。頭に昇った熱を冷ます。膝をつくという行為が、暁風の全身を覚悟で満たしていく。戦場で敵陣に突入する前の静けさに似ている。ただ——今日の敵は、自分の中にある怯えだ。


「陛下」


「ああ」


「臣は——お願いがあります」


 承乾が暁風を見た。幼馴染のように気安い間柄だが、今日の暁風は——違った。将軍の顔ではなく、一人の男の顔をしている。目の奥に——覚悟の光がある。戦場に赴く前の光とは違う。もっと深い、もっと個人的な光だ。


「言え」


「臣は——鳳麗華のそばに立つことを、お許しいただきたい」


 沈黙が落ちた。


 承乾は茶碗を持ったまま、暁風を見つめていた。その表情は読めない。皇帝の仮面をつけている——のではなかった。本当に、何を考えているのか分からない顔をしていた。目が僅かに細まり、唇が薄く結ばれている。思考している。暁風の言葉の一つ一つを、秤にかけている。


「そばに立つ、とは」


「伴侶として」


 暁風の声は低く、震えていた。だが視線は揺るがない。


「鳳麗華は——この国を救った女です。霊脈を繋ぎ直し、食糧で国を建て直し、秘伝を天下に開いた。その人のそばに——臣は立ちたい」


 言葉が——足りない。いつも足りない。暁風は自分の不器用さを呪った。もっと巧みに語れたら。もっと洗練された言葉で、自分の気持ちを伝えられたら。だが、これが自分だ。飾れない。飾ったところで、皇帝には見抜かれる。暁風が嘘をつけない男であることは、承乾が一番よく知っている。


 後宮の官吏なら、典故を引いて理路整然と述べるだろう。麗華なら、笑みを浮かべたまま三手先まで計算した言葉を紡ぐだろう。だが暁風にできるのは——心にある言葉を、そのまま差し出すことだけだ。


 承乾が茶碗を卓に置いた。磁器が木に触れる小さな音が、静かな室内に響いた。その音が、会話の転換点であることを暁風は直感した。


「将軍の地位は捨てるのか」


「いいえ。——将軍としての忠義を捨てるつもりはありません。ですが、それと同時に——あの人のそばに立つことを、許していただきたい」


「両立できると思うか」


「します。——両立させます」


 暁風の声に迷いはなかった。この答えだけは、何度考えても変わらない。忠義を捨てれば自分ではなくなる。麗華のそばを離れれば意味がなくなる。だから——両立する。方法は後から考える。まず覚悟を示す。


 承乾が暁風を見つめた。長い、長い沈黙。窓の外で鳥が鳴いた。その声が遠くに消えてもまだ、承乾は黙っていた。廊下を行き交う文官の足音が、微かに聞こえる。日差しの角度が変わり、暁風の膝元の影が少しだけ動いた。


「暁風」


「はい」


「お前を監視役として鳳凰領に送ったのは——朕だ」


「はい」


「あの時、朕はお前を麗華の監視役として送った。だが——本当は、信頼できる目で麗華の真意を確かめたかった。お前が嘘をつけない男だから」


「……はい」


「その嘘をつけない男が——今、朕の前で膝を折って女を求めている。お前の言葉が嘘でないことは、分かっている」


 暁風は顔を上げた。


 承乾の目に——複雑な感情が揺れていた。かつて自分の貴妃だった女を、最も信頼する臣下が愛している。それは——複雑なことだ。琥珀色の瞳に浮かぶ感情は、一つではない。寂しさと、感慨と、諦めと——そして僅かな羨望が、入り混じっている。


 だが承乾は、もう少年ではなかった。


「暁風。立て」


「……陛下」


「立てと言っている」


 暁風が立ち上がった。膝が痺れていた。どれほどの間、膝をついていたのか。石畳の冷たさが骨まで沁みている。だが、心は——不思議と温かかった。言うべきことは言った。後は——主君の判断を待つだけだ。


「膝を折るな。お前は朕の将軍だ。——将軍が膝を折るのは、戦場でだけでいい」


「では——」


「考えさせろ。三日だけ」


 暁風は頷いた。


「お待ちします」


「それから——」


 承乾が微かに笑った。唇の端がわずかに持ち上がる。かつての少年の、気安い笑みの名残だった。その笑みを見て、暁風の胸に古い記憶が蘇った。即位前の承乾が、宮廷の片隅で暁風と並んで空を見上げていた日。あの日の気安さは——もう完全には戻らない。だが、その名残が今も笑みの端に宿っている。


「麗華は知っているのか。お前が今日ここに来たことを」


「……いいえ」


「そうか。——お前らしいな」


 暁風が退室した。廊下を歩く足取りは、来たときよりも少しだけ軽かった。石畳を踏む靴音が、規則正しく響く。将軍の足音だ。だが——その音の奥に、安堵が混じっていた。


 承乾は一人になった。


 茶を啜った。冷めていた。舌の上に苦みだけが広がる。


(暁風が——膝を折った。あの不器用な男が)


 窓の外を見た。帝都の空が夕暮れに染まっている。茜色の光が雲を赤く染め、宮城の甍が黒く浮かび上がっている。この帝都の空の下で、一人の将軍が膝を折った。それを知る者は——今はまだ、二人だけだ。


(麗華を愛しているのか。——朕が、見捨てた女を)


 複雑な感情が胸を過ぎった。妬みではない。悔恨でもない。それは——もっと静かな感情だった。自分にはできなかったことを、暁風がしている。自分の手からこぼれ落ちたものを、暁風が拾い上げた。


 だが——承乾は笑った。


 将軍が、愛する者のために——膝を折った。それを認められる自分でありたい。


 それが——良き君主であるということだ。


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