廃妃の矜持
名誉回復の日が来た。
帝都の大広場。各地への食糧支援の第一便が出発する式典に合わせて、承乾自らが詔を読み上げる。
麗華はその朝、いつもより早く起きた。
客館の居室で鏡に向かい、髪を結い上げた。深紅の交領袍を纏い、鳳家の紋章を織り込んだ帯を締める。銀の簪を一本。後宮時代のような華美な装いではないが——鳳凰領の主としての品格は失っていない。帯の結び方は春蘭が仕込んだもので、鳳凰の紋が正面にくるように整える。鏡の中の自分を見ながら、麗華は自然と手が動いていた。右手の人差し指が左手首の内側に触れている。あの癖だ——気づいて、止めた。
鏡に映る自分の顔を見た。
三年前。廃妃を宣告された日も、鏡を見た。あの日の自分は——笑っていた。計算された微笑みで、皇帝の前に立っていた。「帝都の食卓が寂しくなりませんよう」。あの一言は復讐の始まりだった。食糧を握る女が、笑顔のまま帝国を兵糧攻めにする。あの日から、全てが始まった。
今日も笑っている。だが——笑みの質が違う。今の笑みには刃がない。武器ではなく、ただの笑みだ。
鏡の中の自分と、三年前の自分を重ねてみる。同じ琥珀色の瞳。同じ切れ長の鳳眼。だが目の奥が違う。三年前の瞳には冷たい炎があった。今の瞳には——穏やかな光がある。戦いが終わったのではない。戦い方が変わったのだ。壊すための戦いから、建てるための戦いへ。
「お嬢様。お支度はよろしいですか」
春蘭が襖の向こうから声をかけた。
「ええ。——行きましょう」
広場には文武百官だけでなく、帝都の民が集まっていた。食糧支援の荷車が二十台以上も並び、鳳凰領の穀物と各地の特産品が積み上げられている。米俵が山と積まれ、麦の袋が隙間なく詰められ、漬物の壺や乾物の箱が荷台を埋めている。牛が鼻息を吐き、荷馬車の車輪がきしむ音が朝の空気に響いていた。朝市帰りの主婦が足を止め、子供が牛の尻尾を引っ張って母親に叱られている。老人が杖をつきながら広場の隅に立ち、目を細めて荷車の列を見つめていた。
穀物の匂いが広場を満たしている。米と麦と乾物が混じり合った、豊かな匂い。三年前の帝都では感じられなかった匂いだ。食糧危機の最悪期には、この広場には飢えた民が列をなしていた。今は——穀物を積んだ荷車が列をなしている。同じ広場で、風景がこれほど変わるものかと、麗華は胸の奥で思った。
広場の中央に設えられた壇上に、承乾が立った。龍の意匠の冕冠を被り、正装の袍を纏っている。その姿には——三年前にはなかった、為政者としての重みがあった。
「民よ。——朕は、過ちを正す」
広場が静まった。数千の人間が一斉に口を閉じ、皇帝の声に耳を傾ける。
「三年前、朕は一つの詔を出した。鳳家の一人娘、鳳麗華を廃妃とする詔である」
ざわめきが起きた。帝都の民の多くは、廃妃事件を噂として知っている。「食糧が減ったのは廃妃のせいだ」という声もあれば、「いや、鳳家がなければ今ごろ飢え死にだ」という声もあった。
「あの詔は——誤りであった」
承乾の声に、震えはなかった。三年前の皇帝なら——この言葉を口にすることはできなかっただろう。過ちを認めることは、皇帝の権威を損なうことだ。趙文昌は常にそう教えていた。だが今の承乾は——違う。
広場の片隅で、露店の親爺が息を呑んでいた。「皇帝が……過ちを認めている」。隣の女房が袖で目を拭いた。「あの方が、あの堅物の皇帝が」。声は小さかったが、広場の空気が変わったのを麗華は感じた。民の目に浮かぶのは驚きだけではない。信頼だ。過ちを認められる皇帝を、民は信じる。
「鳳麗華に対する弾劾は、蘇家と旧宰相・趙文昌による偽証に基づくものであった。朕は偽証を見抜けず、冤罪による廃妃を命じた。これは朕の過ちである」
広場の空気が張り詰めた。
「廃妃の詔を出す前、朕は三日眠れなかった」
この一言で——広場が凍りついた。
「何かが間違っていると感じていた。だが——過ちを認める勇気がなかった。側近の言葉に縋り、自らの判断を放棄した。それが朕の罪だ」
承乾が巻物を広げ、詔を読み上げた。
——鳳麗華に対する廃妃の詔は偽証に基づくものであり、これを撤回する。鳳麗華の名誉を回復し、三年間の冤罪を雪ぐ。なお本詔は鳳麗華を後宮に復帰せしむるものではなく、あくまで過ちの訂正と名誉の回復を目的とする。
承乾が巻物を閉じた。
「鳳麗華。——お前に詫びる」
麗華は広場の端に立っていた。暁風が隣にいる。半歩後ろに立ち、麗華を見守っている。その存在が——風除けのように心強かった。暁風の指先が、麗華の袖口に触れていた。公の場では手を繋げない。だがこの僅かな接触が——暁風なりの「そばにいる」という表明だった。
承乾の言葉を聞きながら、麗華は微笑んだ。
三年前は痛かった。認めたくなかったが——痛かった。皇帝に裏切られた傷は、冷静さの仮面の下で疼いていた。眠れない夜があった。右手の人差し指で左手首の内側を撫でる癖が——あの頃から始まった。今も無意識にやっていることがある。暁風が「何の癖だ」と聞いたことがある。「何でもないわ」と答えた。本当は——怒りと悲しみを押し込めるための、体の記憶だった。
今は——痛くない。傷が消えたわけではない。傷跡は残っている。だが傷跡は——もう傷ではない。過去の記録だ。そこから何が始まり、どこに辿り着いたかを示す、道標のようなものだ。
承乾が食糧支援の第一便の出発を命じた。荷車が動き出す。牛が歩き出し、車輪がゆっくりと回る。民が歓声を上げた。子供が荷車を追いかけて走る。老婆が手を合わせて祈っている。穀物の匂いが風に乗って広場中に広がり、朝日が荷車の上の米俵を黄金色に照らしている。
麗華は歓声の中に立ちながら、暁風を見た。
「暁風」
「ああ」
「終わったわ」
「何がだ」
「廃妃という——過去が」
暁風が麗華を見た。真っ直ぐな目。嘘がつけない目。
「お前は最初から、廃妃ではなかった。——自ら去った女だ」
麗華の目が潤んだ。
「……ありがとう」
「礼は要らん」
「要るの。——ずっと、言いたかったの。あなたがそばにいてくれたから、ここまで来られた」
暁風の耳が赤くなった。
「……言うな。ここは広場だ」
「だから言うの。みんなの前で」
「……勘弁してくれ」
麗華は笑った。暁風の耳の赤さが、歓声の中で一番温かいものに見えた。
広場の喧騒の中で、二人は並んで立っていた。荷車が去っていく。鳳凰領の穀物が——帝都を越えて、全国に届く。
春蘭が遠くから見守っている。目の縁がわずかに赤いのは、花粉のせいだと本人は言うだろう。だが秋の広場に花粉は飛んでいない。
麗華は微笑んだ。もう「廃妃」という言葉に、傷は宿っていなかった。代わりに——誇りが、あった。
廃妃にされた女ではなく、自ら去り、自ら戻り、自ら国を建て直した女。それが——鳳麗華だ。




