皇帝の提案
新体制の発表から三日後。
承乾が麗華を私的に呼び出した。
宮城の奥、皇帝の私室。かつて麗華が貴妃として出入りした場所に近いが、今の麗華は別の立場でここにいる。廊下を歩く足取りに、三年前の記憶がかすめた。あの頃は深紅の裳裾を引いて歩いた。翡翠の耳飾りが揺れ、簪の鳳凰が灯火を弾く音がした。今は藍染めの袍に銀の簪一本。装いが変われば、歩く意味も変わる。
私室の扉は重い。楠の一枚板に透かし彫りが施されている。この扉の向こうに、何度入ったことだろう。貴妃として政務を相談に来た日々。茶を飲みながら経書を議論した夜。全てが——遠い記憶だ。
「座れ」
承乾が茶を注いだ。自ら、だ。侍従を退けて。白磁の茶碗に、薄い緑の液体が細く注がれた。湯気が承乾の指先をかすめ、茶の香りが室内に広がる。注ぎ方は手慣れている。以前はぎこちなかったはずだが——この三年で、自分のことは自分でやる習慣がついたのかもしれない。
麗華は座り、茶を受け取った。
「お言葉ですが、陛下が自ら茶を注ぐのは——」
「朕が注ぎたいときに注ぐ。誰の許可も要らぬ」
麗華は苦笑して茶を啜った。香りは高いが、苦味がやや強い。帝都の高級茶だ。渋みの奥に枯れた花の香りが潜んでいる。舌の上に残る後味は、品格があるがどこか寂しい。鳳凰領の茶が日向の明るさなら、この茶は月明かりの静けさだ。
「本題に入る」
承乾が一枚の文書を卓に置いた。象牙色の紙に、朱印が押されている。紙質は上等の麻紙で、端がわずかに巻いている。書き上がったばかりなのだろう。
「お前にふさわしい地位を用意した」
文書を開く。
——鳳凰領国公の位を授与す。鳳凰領の自治を認め、朝廷とは対等の協力関係とする。なお国公は朝廷の臣下ではなく、独立した地位として——
麗華は目を見開いた。
「国公……」
「瑛朝の歴史において、女性に国公位を授けるのは初めてだ。前例はない。——朕が作る」
前例を作る。その一言に、承乾の覚悟が凝縮されていた。かつては前例がないことを恐れ、趙文昌の先例主義に縋っていた少年が、今は自ら前例を破壊し、新しい制度を築こうとしている。
「陛下」
「お前の望む形はお前が決めろ、と言ったはずだ。——これが朕の提案だ。不服があれば言え」
麗華は文書を読み返した。
国公。朝廷の臣下ではなく、対等の協力者。鳳凰領の自治権を持ち、霊脈管理院の長官を兼務する。後宮に戻るのではなく。朝廷に属するのでもなく。自分の場所で、自分の力で、国を支える。
よく練られた内容だった。麗華が何を望み、何を望まないかを——承乾は正確に読んでいる。
「……一つだけ」
「何だ」
「この文書には『廃妃の名誉回復』の文言がありませんが」
「あえて外した」
「なぜ」
「お前が望んでいないと思ったからだ。『廃妃を撤回し、貴妃に復帰する』——そんな形は望んでいないだろう」
麗華は黙った。承乾の洞察が——正確だったからだ。貴妃に戻りたいわけではない。後宮に戻りたいわけでもない。あの場所は——もう、自分の居場所ではない。貴妃に戻りたいわけではない。後宮に戻りたいわけでもない。あの場所は——もう、自分の居場所ではない。
承乾が続けた。
「お前は後宮に戻る人間ではない。後宮の位を戻すことに意味はない。——ただし」
承乾がもう一枚の文書を出した。
「名誉回復の詔は、別に出す。廃妃の詔を正式に撤回し、偽証による冤罪であったことを天下に公布する。だが、復帰ではない。撤回だ。過去の過ちを認めることと、お前を後宮に戻すことは別の話だ」
麗華は二枚目の文書を見つめた。一字一字を目で追う。丁寧な楷書で書かれた文面には、法令の正確さと、それを超えた個人の意志が滲んでいた。
「……よく考えましたね、陛下」
「三年考えた」
「三年」
「お前を廃妃にしてから——ずっと」
沈黙が流れた。窓の外で鳥が鳴いている。宮城の庭の梧桐が風に揺れ、葉擦れの音が遠くに聞こえた。午後の光が卓の上の文書を照らし、朱印の赤が鮮やかに浮かび上がっている。
この部屋で、三年前も茶を飲んだ。あの頃は貴妃として、もう少し堅い表情で座っていた。今は——肩の力が抜けている。
麗華は茶碗を持ち上げた。
「いただきます」
茶を一口飲んだ。温かく、少し苦い。宮廷の高級茶だが、鳳凰領の緑茶のほうが好みだ。あちらは甘みがあり、後味が軽い。だがこの苦い茶にも——三年分の時間が溶けている。承乾が一人でこの茶を飲みながら、あの日の判断を悔いていたのだとしたら。
「お受けします」
「条件は」
「一つ。名誉回復の詔は、食糧支援の場で発表してください」
「食糧支援の場?」
「各地への食糧支援の第一便が出発する日に、合わせて。——私の名誉回復は、国の食卓が豊かになる日と同じであってほしいのです」
承乾が目を細めた。
「……お前は、どこまで行っても食の人間だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めている」
二人は茶を飲んだ。窓の外に、夕日が差し込んでいた。梧桐の影が長く伸び、室内の書棚を赤く染めている。
「もう一つ。陛下」
「何だ」
「この茶、少し苦いですね。鳳凰領の新茶を送りましょうか」
「……遠慮しておく」
「なぜ」
「お前の茶を飲んだら、宮廷の茶が全て不味くなる。——以前もそうだった」
麗華は笑った。後宮時代の記憶が——ほんの一瞬、よぎった。茶を淹れるたびに承乾が「この味に慣れると困る」とぼやいていた。あの頃は何気ない日常の一コマだったが、今の言葉には——別の重みがある。
だがもう、痛みはない。過去は過去だ。今は——今の場所がある。




