新しい農業
新しい農業体制の構築が始まった。
麗華は帝都の書院を仮の本部とし、各地の復興計画を策定していた。書院の広い部屋は、いつしか地図と帳面と試算書で埋め尽くされていた。卓の端には食べかけの蒸し饅頭が置かれ、茶は半分冷めている。麗華が食事を忘れて没頭しているときの常だ。春蘭が何度注意しても直らない。
核心は一つ。鳳凰領に集中していた食糧生産を、瑛朝全土に分散させる。
卓の上に広げた地図には、各地の土壌の状態と霊脈の強度が色分けで示されている。赤は荒地のまま。黄は回復の兆し。緑は作付け可能。緑の領域が、十日前よりわずかに広がっていた。その変化を記録するために、麗華は毎日この地図を更新している。微かな変化だが、積み重ねれば大きな流れになる。
「東部はもともと穀倉地帯でした。霊脈が回復すれば、三年以内に米と麦の作付けが可能になるはずです」
麗華が記録官に説明する。指先で地図をなぞりながら、各地の特性を読み上げていく。その指先の動きは正確で、後宮仕込みの優雅さを残しながらも、実務家の確かさがある。
「南部の山間部は穀物には向きませんが、茶と薬草の栽培に適しています。霧が多く、日照が柔らかい。百年前はここで摘んだ茶が瑛朝一と謳われていたそうです。古い文献に、『南嶺の霧茶は一服にして百煩を散ず』とありました。百年間途絶えていたその味を、取り戻せるかもしれません」
「西部は?」
「西部の河川域は蔬菜と果樹。川沿いの沖積土は肥沃で、鳳凰領にはない品種の瓜や李が育つはずです。川魚も戻るでしょう。鮎の塩焼きは、百年前の文献では西部の名物と記されています。北部の草原は——従来通り牧畜ですが、牧草の生育が改善されるでしょう。乳製品の流通が始まれば、帝都の食卓にこれまでなかった味が加わります」
「鳳凰領は?」
記録官がやや遠慮がちに問うた。この質問が出ることを、麗華は予想していた。
「鳳凰領は——これまで通り穀物の主要産地であり続けます。ただし、これまでの七割という比率は、十年以内に五割、二十年以内に三割まで下がる見込みです」
記録官が筆を止めた。
「三割。それは——鳳凰領にとっては」
「影響力の低下? ええ、その通りです。鳳凰領の穀物は瑛朝の命綱であり、それが私の武器でもあった。食糧を握っていたから、朝廷を詰ませることができた。その武器を、自ら手放すことになります」
麗華は窓の外に目を向けた。帝都の大路を行き交う人々が、小さく見える。
「食糧は武器にもなるし、人を生かす力にもなる。——私は後者を選んだ」
記録官が深々と頭を下げた。暁風が壁際で腕を組んでいた。麗華の言葉を聞いて、小さく頷く。自分の最大の武器を手放す宣言を、これほど穏やかに口にできる女を——暁風は他に知らない。かつて食糧を武器に朝廷を震え上がらせた同じ女が、今は武器を置くと言っている。矛盾しているようで、していない。この女の芯は——食糧を握ることではなく、食で人を生かすことにある。三年かけて、暁風はそれを知った。
午後。
承乾が書院を訪れた。護衛も連れず、簡素な常服姿で。書院の入口で靴を脱ぎ、部屋の散らかりように眉を上げた。
「……戦場のようだな」
「失礼しました。片付ける暇がなくて」
「構わん。進捗はどうだ」
「順調です。東部には来年の春から、鳳凰領の農技師を派遣します。種子と技術の移転を段階的に進め、三年後の本格作付けを目指します」
「鳳凰領の技術を出すのか。惜しくはないか」
「惜しいですよ。百年間かけて磨いた技術です。祖父が半生をかけて改良し、私が受け継いだ術と知恵です」
麗華の声に、わずかな感傷が混じった。だがすぐに消えた。
「でも——独占していたから国が詰んだのです。同じ過ちを繰り返すつもりはありません」
承乾が微笑んだ。三年前には見られなかった、穏やかで確信のある笑みだった。
「お前らしい」
「どういう意味ですか」
「合理的で、情に厚い。——矛盾しているようで、矛盾していない」
(この人——変わったわ。人を評する言葉に深みが出た。趙文昌の借り物ではない、自分の言葉で語っている)
「陛下。もう一つ提案があります。各地の食文化を復活させたいのです」
「食文化?」
「ええ。百年間、瑛朝の食は鳳凰領の穀物に依存してきました。それ以前は——各地に独自の食文化があったはずです。東部の餅菓子、南部の山茶、西部の川魚料理、北部の乳製品。古い文献には色とりどりの料理名が並んでいて、読んでいるだけで涎が出そうですもの」
「それが復興と何の関係がある」
「食は——文化です。食文化が戻れば、人の誇りが戻る。誇りが戻れば、土地への愛着が戻る。愛着が戻れば——人は自分の土地を守るようになる。制度や予算だけでは国は建て直せません。民の心が動かなければ」
承乾が目を見開いた。
「……お前は、食糧の話をしているようで、国の話をしている」
「食糧の話は国の話です。——いつだって」
承乾は深く頷いた。
「分かった。各地の食文化の復興を、国策として支援する。必要な予算は——」
「既に試算してあります」
麗華が帳面を差し出した。承乾が受け取り、数字がびっしり並んだ帳面を一行ずつ読む。
「……相変わらず抜かりがないな」
「ありがとうございます」
夕刻。
麗華と暁風が帝都の食堂で食事を取った。庶民の食堂だ。木の卓と長椅子。油の染みた卓に、湯気の立つ麺と蒸し饅頭が並ぶ。天井の梁には煤がこびりつき、壁にかけた品書きの墨が薄れている。
麗華が麺を啜った。太めの平打ち麺に、豚骨の出汁が絡んでいる。葱が散らされ、胡麻油が香る。麺は不揃いで太さが一定しないが、噛むと小麦の味がしっかりと感じられる。
「……美味しいわ。味付けは荒いけれど、出汁に力がある」
「ああ」
「帝都の庶民の味ね。——こういう食堂が、各地にできればいいわ。その土地の味で、その土地の人を笑わせる食堂が」
「できるさ。——お前が、そうするんだろう」
麗華は暁風を見た。暁風が不器用に笑った。麗華は麺をもう一口啜り、微笑んだ。
各地の食文化が復活し始める。それは——新しい瑛朝の始まりだ。




