暁風の盾
暁風の腕が、麗華を支え続けていた。
客館の執務室。麗華は地面に掌を当てたまま、全身から力を絞り出している。暁風は後ろから麗華の背中と肩を支え、微動だにしない。石像のように動かない。それが暁風の戦い方だった。
三刻目に入っていた。儀式が始まって三時間。まだ終わらない。
暁風には霊脈の状態は分からない。術の理屈も知らない。目を閉じた麗華が何を感じているのか、見当もつかない。
だが——麗華の身体の状態は分かる。
背中越しに伝わる体温。呼吸のリズム。筋肉の震え。三年間、この人の隣にいた。食事の量で体調を察し、呼吸の深さで疲労を読み取り、右手が左手首を撫でれば怒りを察した。この人の身体は——暁風にとって、地図のように読める。どの道がどこに繋がっているか。どの信号が何を意味するか。三年分の記憶が、地図を描いている。
体温が下がっている。手が冷たくなってきた。呼吸が浅く速くなっている。背中の筋肉が痙攣するように震えている。汗が背中を伝い、暁風の掌を濡らしている。冷たい汗だ。
限界が近い。
「麗華」
「……黙って。集中している」
「分かった」
暁風は黙った。
代わりに、背中に当てた手に力を込めた。お前は一人ではない、と。言葉にしなくても伝わるはずだ。三年間——言葉にしなくても伝わってきた。この手の温もりで。この腕の力で。
麗華の呼吸が——少し、深くなった。
暁風は思った。
俺にできることは少ない。
術は使えない。霊脈の声も聞こえない。地養術の理論も分からない。この国を救う力は——俺にはない。知略もなければ学もない。政治の駆け引きもできず、外交の言葉も操れない。文を書けば字が汚いと笑われ、茶を淹れれば濃すぎると言われる。粥を炊けば焦がす。
三年前、監視役としてこの人の前に立ったとき、自分がこんな場所でこんなことをしているとは思いもしなかった。剣と盾を持つ手で、女の背中を支えている。戦場ではない場所で、戦場とは違う戦いを、この人の隣で戦っている。
だが——この人を支えることはできる。
文字通りの意味で。
背中を支え、肩を支え、倒れかけたら受け止める。この腕で。この手で。それだけのことが——今、自分にできる全てだ。
腕が痺れていた。三刻間、同じ姿勢で支え続けている。肩の筋肉が硬直し、指の感覚がなくなりつつある。手首から先がじんじんと痺れ、掌の感覚が遠い。だが動かない。動くわけにはいかない。戦場で盾を構えたまま何刻も敵を待ったことがある。あのときと同じだ。身体は悲鳴を上げるが、心は揺るがない。
麗華の背中は薄い。こんなに薄い背中で、国の命運を背負っている。暁風の掌で覆い尽くせるほどの面積に、百年の重みが載っている。だからこそ——支える。この掌で、この手で。
「暁風」
「ああ」
「……腕、痺れてない?」
「痺れてない」
嘘だった。とっくに痺れている。だが言わない。言えば麗華が気遣う。気遣えば集中が途切れる。
「嘘つき」
「……分かるのか」
「あなたの嘘は分かりやすいの。声がほんの少し上がるのよ。嘘をつくとき」
麗華が僅かに笑った。笑う余裕があるなら、まだ大丈夫だ。暁風は安堵した。
四刻目。
各地から報告が伝わってくる——麗華の感覚を通じて。暁風には聞こえない。だが麗華の表情の変化で、何が起きているかは察する。眉の動き、唇の緊張、まぶたの震え。全てが情報だ。
「東部——安定。三名が四ポイントを維持中。消耗は激しいが持ちこたえている」
「……ああ」
「南部——意識を失った術者の代わりに予備の弟子が入った。やや不安定だが機能している」
「持ちこたえているんだな」
「ええ。——西部が、峠を越えた。河川域の霊脈が安定した」
「それは——いい知らせだな」
「北部も順調。草原地帯の霊脈は深いけれど素直。——暁風。もう少しよ。もう少しで——」
「ああ。分かっている」
「最後の仕上げに入る。全ポイントを——同時に完全接続する。一番力が要るところよ」
「何をすればいい」
「……そのまま。支えていて」
「分かった」
麗華が深く息を吸った。暁風の手に伝わる背中が、大きく膨らんだ。肋骨が広がり、肺が空気を取り込む。全身に力を巡らせる準備だ。
そして——全身の力を込めた。
掌から溢れる光が一気に強まった。緑の光が執務室を満たし、窓から漏れ出し、空に向かって伸びた。光の柱が天井を突き抜けるように見えた。部屋全体が緑の光に包まれ、暁風の鎧の表面にも光が反射して、鉄紺の軍袍が翡翠色に染まった。
暁風の目に、眩い光が映った。術のことは分からない。だがこの光が——美しいことは分かる。麗華の力が——こんなにも、美しいことは分かる。
麗華の背中が弓なりに反る。全身が光に包まれ、髪が風もないのに揺れた。銀の簪が光を受けて鋭く輝いた。
暁風は両腕で麗華を支えた。腕の痺れなど気にならなかった。四刻分の痺れが嘘のように消えた。身体が勝手に動く。この人を守るためなら、身体はいくらでも動く。
この人を、ここで倒させるわけにはいかない。
光が——最高潮に達した。執務室全体が緑に染まった。暁風の鎧に、壁に、天井に、緑の光が溢れている。眩いが、目を逸らさなかった。この光を見届ける。それが——暁風にできる最後のことだ。
その瞬間、麗華の口から声が漏れた。
「——繋がった」
光がゆっくりと収まっていく。緑から淡い金色に変わり、やがて消えていく。
麗華の身体から力が抜け、背中が暁風の腕にもたれかかった。体温が戻り始めている。呼吸が深くなっている。
「……暁風」
「ここにいる」
「ありがとう。——あなたの腕が、何よりの力だったわ」
暁風は何も言わなかった。
ただ、麗華を支え続けた。痺れた腕が痛い。だがその痛みが——今は心地よかった。
術の力はない。だが——この温もりが、何よりの力だった。この手が、この腕が、力だった。




