儀式の前夜
儀式の前夜——二度目の。
一度目の前夜は蘇家残党の妨害で台無しになったが、各地の修復は着実に進んでいる。残党は鎮圧され、東部の術式は修正案で対応できる。全ての障害が取り除かれた。明日が最終段階だ。全ポイントの霊脈を同時に活性化し、断裂したネットワークを一気に繋ぎ直す。
麗華は厨房に立っていた。
帝都の客館にいる弟子たちと、護衛の兵たち。合わせて十五名分の食事を用意する。大鍋に湯を沸かし、まな板の上に食材を並べる。鳳凰領から取り寄せた新米。冬の根菜をたっぷり使った煮物。鶏の塩焼き。蕪と生姜の汁物。漬物。
質素だが、一つ一つを丁寧に作った。手を抜ける料理はない。明日、命を削る作業をする者たちに出す食事だ。
新米を研ぐ。水が澄むまで何度も、手のひらで米をすりあわせる。水の冷たさが指先を痺れさせるが、この工程は省けない。米の表面のぬかを落としきることで、炊き上がりの甘さが変わる。研ぎ水が最初は白く濁り、二度目にはうっすらとした乳白色になり、三度目にようやく透き通る。その透明な水の中で、米粒が白く輝いている。
炊く火加減を見守る。最初は強火で一気に沸騰させ、そこから弱火に落とす。蓋を開けた瞬間に立ち昇る湯気の甘い香りが、厨房に広がった。この匂いは——鳳凰領の匂いだ。祖父の家の厨房で嗅いだ、あの匂い。幼い頃から変わらない、鳳家の米の匂い。
鶏を塩で揉み、じっくりと焼く。皮が香ばしくきつね色に焼き上がるまで、火の傍を離れない。脂が落ちて炎に触れ、ジュッと音を立てる。その音を聞きながら、肉をひっくり返すタイミングを計る。焼き過ぎれば肉が固くなり、足りなければ中まで火が通らない。火加減と時間の見極め。料理の工程は——計画を立て、実行し、状況を見ながら調整する点で、戦略立案と似ている。
蕪を薄く切り、生姜の千切りと共に出汁で煮る。身体を温める汁物だ。明日、長い儀式を乗り越えるための備え。生姜は血の巡りを良くし、体温を上げる。蕪は消化が良く、疲れた胃腸に優しい。術者たちの身体を最善の状態にするための、食を通じた配慮だ。蕪が出汁を吸って透き通っていく。生姜の辛味が湯気に混じり、鼻の奥を刺激する。
根菜の煮物は祖父の好みの味付けにした。甘辛い醤油だれで、ゆっくりと煮含める。大根、人参、蓮根。それぞれの食感を残しながら、味をしっかり染み込ませる。老太爺はいつもこの煮物を最後まで残して、汁まで飲み干した。「煮物は最後に食うのが一番美味い。汁が一番味が濃いからな」と言って、碗を傾けていた。
(祖父様。明日、あなたが開けと言ったものを——開きます。百年の断裂を繋ぎます。だから今夜は——あなたの好きだった味を、みんなに食べてもらいます)
料理が完成したとき、翠微が厨房を覗いた。鳳凰領から急いで帝都に戻ってきた翠微は、旅の疲れも見せず元気だ。頬が日に焼けて赤くなっている。鳳凰領の陽射しを浴びてきた証だ。
「先生、いい匂い……。鳳凰領のご飯の匂いがします」
「もうすぐよ。みんなを呼んできて」
「はい!」
翠微が駆けていった。廊下を走る足音が遠ざかる。元気な足音だ。
食堂に膳を並べた。白い湯気が料理から立ち昇り、食堂全体を温めている。卓の上に白飯、鶏の塩焼き、根菜の煮物、蕪と生姜の汁物、漬物が並ぶ。質素だが、温かい。
弟子たちが席についた。護衛の兵も一緒だ。暁風が末席に座った。麗華に言われなければ壁際に立ったままだっただろうが、「座りなさい。食べる人は全員卓につくの」と言われて渋々座った。大きな身体を小さく丸めて、弟子たちの間に収まっている。
麗華は一人一人に膳を配った。
「食べなさい。明日は——長い一日になるから」
箸が動き始めた。
農家の少年が白飯を一口食べて、目を閉じた。
「……美味い。この米、鳳凰領のですか」
「ええ。鳳凰領の新米よ」
「故郷の味に似ています。——明日、頑張れそうです」
漁村の女が鶏の塩焼きを頬張った。
「塩加減が絶妙です。シンプルなのに、忘れられない味。皮の香ばしさが——たまらない」
老人が汁物を啜り、穏やかに微笑んだ。
「温まりますな。——生姜が効いている。こういう気遣いが、ありがたい」
翠微は根菜の煮物を頬張りながら、泣きそうな顔で笑っていた。
「先生。これ、おじいさまの好きな味付けですよね」
「ええ」
「……美味しいです。おじいさまにも、食べさせてあげたいな」
暁風が黙々と食べている。白飯を一杯、二杯。鶏の塩焼きを骨ごとしゃぶり、汁物を飲み干した。食べ方は豪快だが、一粒の米も残さない。
「美味いか?」
麗華が聞くと、暁風は頷いた。
「ああ。——いつも通りだ」
「いつも通り?」
「お前の飯は、いつも美味い」
弟子たちが笑った。「将軍殿、語彙が少なすぎますよ」と農家の少年が突っ込む。暁風は気にせず三杯目の飯をよそっている。
食卓に笑い声が満ちた。湯気と笑い声が入り混じり、食堂の空気が温かい。
食事が終わる頃、老人が箸を置いて、静かに言った。
「鳳先生。わしはもう長くないかもしれん。だが——この手が動くうちは、大地のために使いたい。明日、全力を出す。それだけは約束する」
麗華は老人を見つめた。七十二歳の背筋がまっすぐに伸びている。
「……ありがとうございます。あなたの力を、信じています」
老人が微笑んだ。穏やかで、揺るぎのない笑みだった。
明日、この手で百年の断裂を繋ぎ直す。成功するかは——分からない。
だが今夜、この食卓がある。同じ飯を食べ、同じ覚悟を共有する者たちがいる。
麗華は全員の顔を見渡した。
かつて「帝都の食卓が寂しくなりませんよう」と言い放った女が——今、仲間たちに手料理を振る舞っている。
食は武器になった。だが今夜の食卓は、武器ではない。絆だ。
麗華は自分の膳に箸をつけた。
「食べなさい。明日は——長い一日になるから」
自分にも言い聞かせるように。食卓の温もりが——明日への力になる。




