玉蘭の決断
蘇玉蘭は馬を走らせていた。
帝都の東門を出て、東部チームが駐留する街道沿いの村に向かう。暁風が手配した禁軍の増援隊の先頭に——玉蘭自身がいた。
馬上で外套が風に翻る。藤色の布がはためき、日差しに白く光る。かつて後宮で輿に乗り、花に囲まれて笑っていた女が、今は馬の背で風を切っている。馬は速い。街道の両脇に荒地の灰色が流れていく。
「蘇殿。あなたが行く必要は——」
護衛の兵が声をかけたが、玉蘭は振り返らなかった。
「行きます。あれは蘇家の者がやったことです。蘇家の人間が止めるべきです」
声は静かだが、有無を言わせない力があった。後宮で皇帝を惑わせた声術は健在だ。ただし今は——人を操るためではなく、自分の意志を通すために使っている。
馬の蹄が街道を叩く。朝日が東の空を赤く染めている。街道沿いの畑は——灰色の荒地だ。かつて田畑があったはずの土地が、砂と石に覆われている。荒地化の現実が、目の前に広がっている。畝の名残が微かに見える。誰かが耕した跡。誰かが種を蒔いた跡。それが全て灰に埋もれている。
(この荒地を——蘇家の祖先が作った。そして今、蘇家の残党が荒地の治療を妨害している)
玉蘭の手綱を握る手に、力が入った。革の手綱が掌に食い込む。痛い。だがその痛みが、頭を冴えさせてくれる。
儀式は昼に始まる。それまでに東部の残党を制圧しなければ、全体の術式に響く。
半刻で村に着いた。
村の外れに、蘇家残党の陣があった。古い蔵に立てこもった十名。蔵の前には乾いた血痕があった。術者を斬りつけたときのものだろう。朝の光が血の跡を赤黒く照らしている。
周囲には彼らが張った見張りが二名。村人は家に閉じこもり、路地に人影がない。戸板の隙間から怯えた目が覗いている。
暁風の増援部隊——騎馬兵十名が村に入り、見張りを素早く無力化した。縛り上げ、口を塞ぐ。声を出す暇も与えない手際だった。暁風が訓練した兵だ。
蔵の前に立つ。
玉蘭が馬を降りた。裾を翻して地面に降り立つ姿は、不思議と優雅だった。後宮で身につけた所作は、戦場でも消えない。
「蘇殿、危険です——」
「構いません」
玉蘭は扉の前に立ち、声を上げた。
「中の方。蘇玉蘭です」
蔵の中が静まり返った。木と石の分厚い壁の向こうで、気配が動く。衣擦れの音。金属が触れ合う音。武器を構えているのだろう。
「聞こえていますね。叔父上の傍系の皆様でしょう。蘇維清叔父上。——出てきてください」
沈黙。蔵の中で小声の議論が聞こえる。
やがて、扉の向こうから老人の声がした。枯れた、だが芯のある声。
「玉蘭か。——裏切り者め。蘇家の恥さらしが」
「裏切り者?」
玉蘭の声は穏やかだった。かつて後宮で使っていた柔らかい声ではない。芯の通った、自分の声だ。甘さのない、だが澄んだ声。
「叔父上。裏切りとは、誰を裏切ったというのですか。蘇家のために来たのですよ、私は」
「蘇家をだ! お前は蘇家の娘でありながら、鳳家の女に——」
「蘇家を守るために来ました」
声が途切れた。
「蘇家が百年前に犯した罪は、隠しきれるものではありません。霊脈再生が成功しようが失敗しようが、真実はもう朝廷の知るところです。玄天閣の古文書に全て記録されている。皇帝も、学士院も、知っている。今さら儀式を妨害しても——蘇家の罪が消えるわけではない」
「黙れ!」
「黙りません。——聞いてください、叔父上。儀式を妨害すれば、蘇家は百年前の罪に加えて今日の妨害の罪まで負います。国事妨害。武装蜂起。術者への傷害。——取り返しがつかなくなる。百年前の罪はまだ償いようがある。だが今日の罪は——弁明の余地がない」
沈黙が戻った。長い沈黙だった。蔵の中で何かが倒れる音がした。椅子か、木箱か。
玉蘭は続けた。声を張らず、しかし一語一語を明瞭に。蔵の壁を通しても届くように。
「私は蘇家の名を捨てはしません。蘇家が犯した罪を、蘇家の者として清算する道を探します。——だからこそ、この愚行を止めにきました。もうやめなさい。これ以上、罪を重ねてどうするのです」
蔵の中で物音がした。低い議論の声。叫ぶ者と黙り込む者。何かが割れる音。陶器だろうか。
やがて——扉がゆっくりと開いた。
老人が出てきた。蘇維清。目は血走り、手には剣を握っていたが——構えてはいなかった。剣先が地面を向いている。老人の手が震えていた。
「……玉蘭」
「はい」
「お前に、何が分かる。百年間——百年間、我らがどれほどの思いでこの秘密を守ってきたか。先代から、そのまた先代から——一日たりとも安息がなかった。いつか露見するのではないかと——夜ごと、怯えながら——」
「分かりません。百年の重みは、私には分かりません」
玉蘭は一歩前に出た。
「でも——これ以上重ねることは、やめましょう。もう十分です。十分に苦しんだでしょう。十分に恐れたでしょう。——もう、いいのです」
老人の手から、剣が落ちた。
金属が地面に当たる音が、朝の空気に響いた。澄んだ、硬い音だった。
一人、また一人と、蔵の中から男たちが出てきた。武器を下ろし、力なく座り込む者もいた。泣いている者がいた。
禁軍の兵が残党を拘束していく。手荒くはしなかった。暁風の部下は訓練が行き届いている。
玉蘭はその光景を見つめていた。
蘇家の者が、蘇家の者を止めた。
(これでいい。——これが、私のやるべきことだった。蘇家の命令ではなく。誰かの駒としてでもなく。私自身の意志で)
増援隊の隊長が玉蘭に近づいた。
「蘇殿。東部の術者の治療が終わりました。右腕の傷は深いですが、命に別状はないとのこと。骨には達していないそうです」
「そうですか。——よかった」
玉蘭は空を見上げた。
朝日が昇りきっていた。東の空が白く輝いている。荒地の上にも、同じ光が降り注いでいる。
まだ間に合う。
儀式は——始められる。




