妨害工作
儀式の当日、早朝。
東部チームからの急報が飛び込んだ。
「——東部第二ポイント、襲撃を受けました!」
客館の執務室に駆け込んできた伝令の声に、麗華の筆が止まった。朝粥を炊く準備をしていた手が、卓の上の帳面に戻る。
「状況は」
「武装した十名ほどの一団が夜明け前に——術者が一名負傷、作業が中断しています。残りの術者は無事ですが、ポイント周辺が封鎖されています」
伝令の声が上ずっている。若い兵だ。まだ実戦の緊張に慣れていない。しかし報告の内容は的確だった。暁風の訓練のおかげだろう。
麗華は立ち上がった。
傍らの暁風が、すでに腰の剣に手をかけている。麻袍から軍装に着替える時間すらなく、そのまま腰に帯刀している。暁風の目が鋭くなっている。戦場の目だ。瞳の奥に、冷たい炎が灯っている。
「玉蘭の情報が間に合わなかったか」
「東部は遠い。——暁風の手配が届く前だったのね」
昨夜、玉蘭が禁軍に駆け込んだ。蘇家残党の襲撃計画を暁風に伝え、暁風はただちに東部チームへの増援を手配した。騎馬の早飛脚を三騎送り出した。
だが距離がある。帝都から東部の村までは、早馬でも半日はかかる。残党のほうが先に動いた。彼らは東部の近くに前日から潜んでいたのだ。
「術者の負傷の程度は」
「右腕を斬られたとのことです。命に別状はありませんが、術は——」
「使えない、か」
地養術は両手を大地に当てて行使する。片腕を負傷すれば、術の精度は大幅に落ちる。実質的に戦力外だ。
麗華の目が冷たく光った。
(あの農家の少年だったらどうしよう)
東部チームには、伝承式で最初に「何か感じます」と声を上げた少年がいる。あの真っ直ぐな目をした十六歳が——斬られたのか。
「負傷した術者の名は」
「まだ確認が取れておりません」
麗華は唇を引き結んだ。知りたいが、今は名前よりも対策が先だ。
「儀式の前夜に——まだ、こんなことを」
声は穏やかだったが、右手の人差し指が左手首の内側を撫でていた。怒りの徴だ。暁風はそれに気づいたが、何も言わなかった。
暁風が口を開いた。
「増援は向かっている。到着まであと二刻」
「間に合う?」
「残党を制圧するには間に合う。だが——術者が一人欠けた」
東部のポイントは四つ。修復が完了しているとはいえ、儀式当日は各ポイントに術者が立たなければならない。霊脈の脈動を感知し、中核からの信号に応じて自分のポイントの霊脈を活性化させる。一人欠ければ——全体の術式に穴が開く。
麗華は地図を見た。赤い×が東部第二ポイントに付いている。
「東部第二ポイントの代替は——」
「翠微を回しますか」
翠微が執務室の入口に立っていた。いつの間にか報告を聞いていたらしく、顔は緊張しているが、目は据わっている。藍染めの袍に麻の腕抜き——戦いに行く格好だ。
「翠微。あなたは断裂の中心を担当する。動かせない」
「でも、東部に穴が開いたら——」
「東部の残りの三名で補う。術式の配分を調整すれば、理論上は可能よ。一人あたりの負荷は上がるけれど、短時間なら耐えられる範囲に収まる」
麗華は筆を取り、急いで術式の修正案を書き始めた。墨が紙の上を走る。計算が頭の中で回転する。指先が紙を弾くたびに墨が飛び散るが、構わない。
四人で四ポイントを担当する予定だったものを、三人で四ポイントに対応する。第二ポイントの術式を隣接する第一ポイントと第三ポイントの術者に分担させ、負荷を分散させる。
(食糧の配分と同じだ。足りないものを、あるもので補う。配分の最適化。——私が最も得意とすることだ)
「修正案を東部に送るわ。暁風、最速の早馬を」
「分かった」
暁風が執務室を飛び出した。
翠微が麗華の隣に来た。
「先生。大丈夫ですか」
「大丈夫よ。——こういう事態は、想定の範囲内」
嘘だった。想定していなかったとは言わないが、儀式の直前にこれが来るとは思っていなかった。心臓が早く打っている。だが——表情には出さない。
(弟子たちが見ている。ここで動揺すれば、全体の士気に響く)
麗華は修正案を書き上げ、封をした。東部の三名への個別の指示も添えた。一人一人に向けた言葉——「あなたなら、できる」と。
「翠微。あなたは予定通り、断裂の中心に向かいなさい」
「はい」
「東部のことは心配しなくていい。私が何とかする」
「……先生」
「何」
「一人で何とかしようとしてませんか」
麗華は翠微を見た。
翠微の目は真っ直ぐだった。かつて「それじゃ駄目です」と師に正面から言い切った目だ。農家の娘の素朴な勇気が、その目に宿っている。
「……大丈夫よ。一人でやるわけではないわ。東部の三名に、やり方を伝えるだけ」
「本当に?」
「本当に。——あの子たちは、もう一人前よ。信じているわ」
翠微が頷いた。
「先生がそう言うなら、信じます。——あたしも、自分の持ち場をやります」
「ええ。頼んだわ」
翠微が出て行った。背中が見えなくなるまで見送ってから、麗華は深く息をついた。
一人になった執務室で、手が震えていることに気づいた。怒りか不安か——両方だ。
儀式は予定通り行う。蘇家の残党がどれだけ足を引っ張ろうと——百年の断裂を繋ぎ直す。
卓の上に、今朝炊くはずだった米が桶に浸してある。朝粥の準備だ。水を吸って膨らんだ白い米粒が、桶の中で静かに揺れている。
麗華は米を見つめた。それから——厨房に向かった。
朝粥を炊いた。いつも通りの手順で。米を研ぎ、水加減を調え、弱火で炊く。粥が静かに煮立つ音を聞きながら、修正案の内容をもう一度頭の中で確認した。炊きあがった粥は白く輝いていて、米の甘い匂いが厨房に満ちた。
炊き上がった粥を碗に盛り、干し海老を散らした。自分の分と、戻ってきた暁風の分。
暁風が帰ってきたとき、粥は適温になっていた。
「早馬は出した。——飯は」
「あるわ。食べて」
暁風が粥を一口食べ、箸を止めた。いつもの反応。
「……美味い」
「食べて、戦う。それだけよ」
暁風が頷いた。二人で粥を啜った。
塩味が舌に沁みた。温かさが、震えていた手を鎮めた。




