儀式への備え
全てのポイントの準備が整ったのは、最初の成功から二月後のことだった。
客館の執務室。霊脈地図の上に、全てのポイントが緑の印で示されている。二月前は赤が目立っていた地図が、今は緑一色に変わっている。
東部四ポイント——修復完了。
南部三ポイント——修復完了。
西部二ポイント——修復完了。
北部三ポイント——修復完了。
鳳凰領周辺——準備完了。断裂の中心は翠微が担当。
残るは——大規模霊脈再生の儀式。全ポイントを同時に活性化し、断裂した霊脈ネットワークを一気に繋ぎ直す。百年の断裂を、一度の儀式で修復する。
麗華は地図を見渡し、深く息を吸った。
「揃ったわ」
暁風が隣で地図を確認した。太い指が各ポイントの印をなぞる。一つ一つ丁寧に、確かめるように。暁風は術のことは分からないが、地図の読み方は軍人として誰より正確だ。
「全ポイント、準備完了か」
「ええ。各チームの最終報告を昨日までに受け取った。全員、準備は整っている。あとは——やるだけ」
翠微からの最終報告が卓の上にある。鳳凰領から飛脚で届いた文だ。
——先生。断裂の中心の調査が全て終わりました。土の声は聞こえます。待っています、と言っている気がします。あたしたちの準備は整いました。先生——あとは。あと、先生の粥が恋しいです。儀式が終わったら、腹いっぱい食べさせてください。
麗華は翠微の文を指でなぞった。翠微の字は相変わらず少し大きくて、勢いがある。「腹いっぱい」のところで筆圧が強くなっている。食い意地は相変わらずだ。
「儀式の日程を確定させましょう」
暁風が頷いた。
「学士院の記録官は手配済みだ。承乾からも勅命が出ている。いつでも動ける」
「では——三日後。月の満ちる日に」
「月と霊脈に関係があるのか」
「直接的にはないわ。でも——験を担ぐのよ。昔から鳳家では、大きな術は満月の夜に行うものだった。祖父がいつも言っていた。『月が満ちるときは、大地も満ちる』と」
「……験、か」
「祖父がそう教えてくれた。理屈ではなく、心の準備のためよ。大きなことをするときは、心を整える区切りが要る。満月はそのための目印」
暁風が小さく笑った。
「お前らしくないな。理屈で動く女が、験を担ぐとは」
「たまには理屈抜きのことだってしたいの。——それに、各地のチームにとっても、『満月の夜』は分かりやすい合図でしょう。時刻を合わせる目印になる」
「なるほど。それは理屈だ」
「やっぱり理屈で落ち着くのね、私は」
三日後の儀式に向けて、最終準備が始まった。
各地のチームに日時の通達。術式の最終確認。体制の点検。麗華は一日かけて三十七通の文を書いた。各チームの状況に合わせた個別の指示と、全体に向けた言葉。一通一通、相手の顔を思い浮かべながら書いた。東部のあの少年には励ましを、西部の苦労人には労いを、北部の老術者には敬意を。三十七通の全てに、麗華の心が込められている。
承乾から正式な勅命書が届いた。上質な絹の紙に、金泥で書かれた皇帝の言葉。
——霊脈再生の儀を国事として執り行う。鳳麗華を儀式の総指揮とし、全権を委任する。各地の官吏は全面的に協力すべし。
麗華は勅命書を読み、静かに巻き戻した。
(かつて私を廃妃にした朝廷が、今度は私に全権を委任する。あの日、「帝都の食卓が寂しくなりませんよう」と言い放った女に——国の命運を託す)
皮肉、ではない。変化、だ。三年間の戦いと対話の末に、この国はようやく変わった。麗華も変わった。壊すための力を——建て直すために使う。
儀式の前日。
麗華は厨房に立った。
鳳凰領から持ってきた米を研ぎ、水に浸す。米粒の一つ一つが透き通った白色をしている。地養術で育てた米だ。この米を育てた土の力を、明日、国中に分け与える。水を含んだ米粒が指の間からぽろぽろとこぼれ落ちる。その一粒一粒が、鳳凰領の大地の恵みだ。
鶏を捌き、骨を出汁に使い、肉を細かく切る。冬菜を刻み、卵を溶く。帝都の客館にいる弟子たちと先行弟子たち——十二名分の食事を用意した。包丁が俎板を叩く規則的な音が、厨房に響く。刻んだ冬菜の青い匂いが鼻をくすぐった。
白飯。鶏のあんかけ——骨から取った出汁に生姜を効かせ、片栗でとろみをつけた。冬菜の炒め物——強火で手早く炒め、塩と胡麻油だけで味を調えた。卵の花汁——ふわりと溶いた卵が金色の花のように広がる汁物。
食卓に並べたとき、翠微が——いや、翠微は鳳凰領にいる。帝都の弟子たちが目を輝かせた。
「先生が作ったんですか!」
「ええ。明日は長い一日になるから——今日はしっかり食べておきなさい」
弟子たちが卓を囲んだ。
一人一人の顔を見る。三月前は不安に揺れていた目が、今は決意に満ちている。農家の少年は背が伸びた気がする。漁村の女は肌に艶が出た。老人の背筋が真っ直ぐになっている。
「食べなさい。明日は——長い一日になるから」
箸が動き始めた。
「美味しい! 先生、この鶏のあんかけ、すごく美味しいです」
「先生の料理、初めて食べました。翠微さんの話は大袈裟じゃなかったんだ」
「翠微さんが『先生の料理は世界一』って言ってたの、本当だ」
弟子たちの笑い声が広間に満ちた。
暁風が壁際で腕を組んでいた。麗華が暁風に目配せすると、暁風も卓に着いた。
「あんたも食べなさい」
「ああ」
暁風が白飯を一口食べて、箸を止めた。いつもの反応だ。最初の一口で全ての表情が消え、ただ味だけを感じている顔になる。
「……美味い」
相変わらずの一言だった。弟子たちが笑う。「将軍殿、語彙が少なすぎます」と農家の少年が突っ込み、暁風が困った顔をする。
食卓に笑い声が満ちた。
麗華は一人一人に膳を配りながら、思った。
明日、この手で——百年の断裂を繋ぎ直す。
そのために、今日は食べる。みんなで、食べる。
食卓で人を繋ぐ。
それが——鳳麗華のやり方だ。




