暁風と並んで
帝都での初日の公務が終わり、麗華は与えられた屋敷に戻った。
宮城の東側にある客館だ。かつて外国の使節を迎えるために使われていた建物で、広すぎるほどの部屋数がある。中庭には枯れかけた梅の木が数本植わっており、手入れが行き届いていないことがひと目で分かった。かつては宮城の美を誇る庭園だったのだろうが、食糧不足の三年間に庭師が減ったのか、雑草が目立つ。
暁風が警備を確認し、翠微が荷を解き、麗華は執務室にした部屋で帳面を広げた。
やるべきことは山ほどある。明日から玄天閣の古文書調査が始まる。素質者の選抜方法を決め、公開伝承の手順書を作り、霊脈ポイントの現地調査隊を編成しなければならない。
だがその前に——少し、休みたかった。
窓を開けた。帝都の夜。鳳凰領の夜空とは違う。建物の灯りが星を消し、夜でも人の気配が絶えない。遠くから犬の鳴き声と、夜廻りの拍子木の音が聞こえる。かつてはこの時刻になると、夜市の屋台から焼き鳥の匂いや甘い飴の匂いが漂ってきたものだ。今夜は——匂いが薄い。
鳳凰領の夜は、虫の声と風の音だけだった。畑の土の匂いと、遠くから薄荷の香りがした。あの静けさが——少し恋しい。
「麗華」
暁風が部屋に入ってきた。正装を解いて、灰白の麻袍に着替えている。鳳凰領にいるときと同じ姿。その姿を見ると、麗華の肩から力が抜けた。
「警備は問題ない。門に兵を二名、裏口に一名配置した。屋根の上にも見張りを一名。——念のためだ」
「ありがとう」
「……疲れたか」
「少しね。宮城の空気は、鳳凰領より息苦しいわ」
暁風は麗華の向かいに座った。二人きりだった。翠微は隣の部屋で荷を片付けている気配がする。春蘭は鳳凰領に残っている。この屋敷に、麗華の内側を知る者は暁風だけだ。
「今日の宮廷での立ち振る舞い——見事だった」
「あら。褒めるのは珍しいわね」
「事実だ。官吏どもの顔が引きつっていた」
「三年前に私を追い出した人たちよ。引きつって当然でしょう」
暁風が口元を微かに緩めた。笑うことの少ない男が見せる、ほんの僅かな表情の変化。三年の付き合いで、麗華にはそれが読めるようになっていた。
「……あんたが笑うと、あいつらが怯える。面白い光景だった」
「面白がらないでください」
「事実だ」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。鳳凰領の夜にも似た静けさだったが、ここは帝都だ。窓の外から漏れ聞こえる雑踏の音が、かすかに空気を揺らしている。
暁風が立ち上がり、窓辺に来た。麗華の隣に立つ。肩が触れた。暁風の身体は大きくて温かい。鍛え上げた武人の身体から、鉄と革の匂いがする。
「暁風」
「ああ」
「帝都で——あなたと並んでいるのが、不思議な気分よ」
「不思議か」
「ええ。三年前は——あなたは監視役で、私は被監視者だった。帝都はあなたの主の場所で、私が追い出された場所だった。今日、宮城に入ったとき——三年前に出たときの記憶が重なって、少し目眩がしたの」
「気づかなかった」
「気づかせなかったのよ。あの場で揺らぐわけにはいかなかったもの」
「……そうか」
「今は違う」
「ええ。今は——」
麗華は暁風の手に触れた。大きな手。武骨な手。剣を握り、弓を引き、そして麗華を支えてきた手。
「今は、あなたが隣にいてくれる」
暁風の手が、麗華の手を包んだ。無骨な指が、壊れ物を扱うように優しく包む。
「今日、宮廷であんたの半歩後ろに立っていた」
「ええ」
「あれは——護衛の立ち位置じゃない。自分でも分かっている」
「何の立ち位置?」
「……分からん。ただ、あんたの隣にいたかった。あの場で——お前は一人じゃないと、示したかった」
麗華は笑った。穏やかな笑みだった。後宮の笑みでも、知略の笑みでもない。ただ嬉しいだけの、素直な笑み。
「それで十分よ」
窓の外で、帝都の夜が静かに更けていく。
明日から、本当の戦いが始まる。古文書の調査。秘伝の照合。後継者の育成。だが今夜だけは——隣にいる温かさを、味わっていたかった。
「暁風。明日、朝粥を炊くわ。この屋敷の厨房は使えるかしら」
「確認する。——米はあるのか」
「鳳凰領から持ってきたわ。帝都の米より美味しいの。去年の秋に収穫した新米を、わざわざ選んで持ってきたのよ」
「知ってる」
「知ってるの?」
「三年間、食ってきたからな。——あんたの米は、他の米と味が違う」
麗華は目を瞬いた。暁風が味の違いを語るのは珍しい。軍の粗食で舌を鍛えたこの男が、米の味を区別できるようになったのだ。三年間、麗華の料理を食べ続けた結果として。
「あなたが最初に私の粥を食べたとき——覚えてる? 一口食べて、箸が止まって、しばらく何も言えなかった」
「……覚えている」
「あれが嬉しかった。監視役の将軍が、食べ物の前で無防備になる瞬間が」
「無防備だったか」
「ええ。とても。あなたの目が丸くなって、口が少し開いて、まるで子どものような顔をしていたわ。——あのときから、この人の食事は私が作ろうと思ったの」
暁風の耳が赤くなった。帝都の夜でも、暁風は変わらない。感情が顔に出るのを隠せない不器用な男。
「明日から忙しくなるわ。玄天閣の調査、素質者の選抜、計画の具体化。——でも今夜は、少しだけ休みましょう」
「ああ」
「暁風」
「何だ」
「帝都にいても——あなたが隣にいれば、鳳凰領と同じ味の粥が作れる気がするの」
「……意味が分からんが、嬉しいのは分かる」
麗華は微笑んだ。
この男が——ずっと、傍にいてくれた。鳳凰領から帝都まで。監視役から、信頼する人へ。そして今は——傍にいたいと言ってくれる人へ。
帝都の屋敷の窓から見える夜空に、鳳凰領ほどではないが、いくつかの星が瞬いていた。明日の朝、炊きたての粥の湯気が、この屋敷に鳳凰領の空気を連れてくるだろう。
そう思うと——帝都の夜も、悪くなかった。




