帰るのではない
出立の朝。
鳳凰領の門の前に、旅支度を整えた一行が集まった。
麗華。暁風。翠微。そして暁風の手勢から選ばれた護衛の兵が数名。
朝日が東の山の稜線から顔を出し、門を照らしていた。
麗華は門の前に立ち、鳳凰領を振り返った。
緑の畑が広がっている。朝露が穂先に輝き、用水路の水が朝日を映して光っている。遠くでは農夫がすでに畑に出ている。
そして南を見れば——灰色の大地。緑と灰の境界線が、日ごとにこちらに迫ってきている。
(この風景を——守るために行く)
「先生」
翠微が隣に並んだ。
「帝都、楽しみです。——怖いけど」
「怖い?」
「皇帝陛下のお膝元ですよ? 農家の娘が行くところじゃないです、普通は」
「普通じゃないのよ、あなたは。地養術の後継者として行くの。胸を張りなさい」
「はい……。先生が一緒なら、大丈夫です」
暁風が馬の手綱を持って歩いてきた。
「準備は整った。——行けるか」
麗華は暁風を見た。
「行けるわ」
「帰るのか。あの場所に」
麗華は首を振った。
「帰るのではありません」
暁風が眉を上げた。
「行くのです」
三年前、麗華は帝都を去った。廃妃として、門を出た。あれは「去る」だった。背中に門が閉まる音を聞きながら、振り返らずに歩いた。
今は違う。
今日は「行く」のだ。自分の意志で。自分の足で。
「帝都に帰るのではなく、帝都に行く。——この国を建て直すために」
暁風が微かに笑った。
「ああ。——二人で行くか」
「二人で行くのね」
「ああ。二人で行く」
翠微が手を挙げた。
「あたしもいますよ!」
「三人で行くわね」
「はい!」
門が開いた。
麗華は一歩を踏み出した。
三年前、この門を反対方向に通った。帝都から鳳凰領に戻ってきた。あのときは怒りと覚悟と、隠しきれない傷を抱えていた。
今——怒りは消えていない。傷も完全には癒えていない。
だが隣に暁風がいる。後ろに翠微がいる。鳳凰領には春蘭がいて、老太爺がいて、領民がいる。
一人ではない。
門を出た麗華の背に、朝日が差した。
長い影が前に伸びる。帝都の方角に向かって。
鳳凰領の門が背後で開いたままになっている。閉まらない。閉める必要がない。
——戻ってくるのだから。
「先生、朝ごはんのおにぎり、馬の上で食べていいですか」
「行儀が悪いわね」
「でもお腹すきました」
「……半分くれるなら、許す」
「先生もですか!」
暁風が横で口元を緩めた。
「俺にもくれ」
「暁風さんまで!」
一行は街道を進んだ。
朝日の中を。
街道の脇に、鳳凰領の農夫が何人か立っていた。麗華の出立を聞いて、見送りに来たのだ。早朝だというのに、子供を連れた家族もいる。子供が眠そうに目をこすりながら、小さな手を振っている。
「鳳様、行ってらっしゃい」
「帝都でも——お身体に気をつけて」
「必ず帰ってきてくださいね」
麗華は微笑んで、手を振った。
「必ず戻ります。——この食卓を、守りに行くのですから」
農夫たちが深く頭を下げた。中に一人、年嵩の女が涙を拭いている。この女は——南部の穀倉地帯から逃れてきた避難民だ。荒地化で畑を失い、鳳凰領の中部に移り住んだ。
その女が叫んだ。
「鳳様! 南の畑を——取り戻してください!」
麗華は足を止めた。
「……ええ。取り戻すわ。あなたの畑を」
女が泣いた。周りの農夫たちも目を潤ませている。
街道が鳳凰領の境界を越えるとき、風景が変わった。緑の畑が途切れ、灰色の大地が広がり始める。荒地と緑地の境界線。毎日少しずつ北に這い寄ってくる線だ。
「先生。ここから先が——」
「ええ。荒地よ」
翠微が馬上から荒地を見つめた。目を閉じ、耳を澄ませるようにしている。三つ編みの髪が風に揺れ、翠微の顔に朝日が当たった。
「……聞こえます。土が、泣いてます。でも——」
翠微が目を開けた。目に決意がある。
「でも、まだ生きてます。あたしが、必ず」
暁風が馬を麗華の横に寄せた。
「長い旅になる。——大丈夫か」
「大丈夫よ。あなたがいるから」
暁風は何も言わなかった。ただ、微かに頷いた。
灰色の大地と緑の畑の境界を越えて。
帝都へ。
——共に、この国を建て直すために。
翠微が馬上から保存食の握り飯を取り出した。干し飯の握り飯。味噌の香りがする。
「先生、お腹すいたら食べてくださいね。暁風さんの分は——」
「多めにしてある。分かっている」
「あたし、ちゃんと準備しましたから」
握り飯の温もりが掌に伝わった。鳳凰領の米で作った、鳳凰領の味の握り飯。
帝都に着くまで——この味が、旅の糧になる。




