旅立ちの支度
帝都に向かう支度は、三日で整えた。
麗華は翠微と春蘭を呼び、指示を出した。
「春蘭。鳳凰領の留守は任せるわ」
「承知しております。領内の管理と荒地化の監視は、お任せください」
「翠微は私と一緒に帝都に行く。地養術の後継者育成は、あなたなしでは始まらない」
「はい!」
「暁風は護衛と橋渡しを兼ねて同行する」
暁風が頷いた。
「道中の警備は俺が手配した。街道筋の安全は確保してある」
翠微が旅支度をまとめた。着替えと保存食、そして荒地の調査に使う道具。さらに——老太爺から借り受けた、地養術の手記の写し。
「先生。これも持っていきます」
「老太爺様の手記の写しね。帝都の古文書と照合するのに役立つわ」
支度が整った夕方、麗華は老太爺の寝室を訪れた。
老太爺は眠っていた。意識の戻る時間は日に日に短くなっている。だが呼吸は安定していた。枕元に、麗華が毎朝届ける粥の椀が置いてある。今朝の分は半分ほど減っていた。食べたのだ。
「祖父様」
声をかけた。返事はない。
「帝都に参ります。——お教えくださった秘伝の、残りの半分を取りに」
老太爺の閉じた目蓋が、微かに動いた。
「祖父様が仰った通りにします。恐れず、開きます。——鳳家の秘伝を、この国のために」
老太爺の手をそっと握った。細い指。かつては地養術の力で大地を蘇らせた手。今は布団の上で力なく横たわっている。
「行ってまいります」
老太爺の唇が、微かに動いた。
声は聞こえなかった。だが——唇の形から、麗華は読み取った。
——行け。
麗華は老太爺の手を布団に戻し、頭を下げた。
部屋を出たとき、廊下で春蘭が待っていた。
「お嬢様。——老太爺様は」
「微笑んでいたわ。たぶん」
「たぶん、ですか」
「目を閉じたままだったから。でも——唇が、ほんの少し上がったの」
春蘭は静かに頷いた。
「お気をつけて。帝都の道中、お身体をお大事に」
「春蘭。あなたも」
「私はここで、お嬢様のお帰りを待っております。——いつも通り」
麗華は春蘭の手を一瞬だけ握った。
十五年間、ずっと傍にいてくれた女。廃妃になったときも、食糧で国を詰ませたときも、荒地化に怯えたときも。
「必ず戻るわ。——この食卓に」
「お待ちしております」
夕刻。翠微が荷物の最終確認を終えた。
「先生。旅の保存食、こんなに作りました」
翠微が誇らしげに見せたのは、干し飯の握り飯、味噌漬けの蕪、干し芋、そして塩漬けの鶏肉。農家の知恵を総動員した旅の糧食だ。
「三日分あります。道中の宿場でも食事は取れますけど、お腹が空いたときに」
「ありがとう、翠微。完璧ね」
「暁風さんの分は多めにしてあります。あの人、よく食べますから」
暁風が横で「俺はそんなに食わん」と言ったが、翠微は聞いていない。
夜。
麗華は出立の前の最後の夜を、粥を炊いて過ごした。
明日の朝食用だ。旅立ちの朝に、最後の鳳凰領の粥を食べる。
米を研ぎ、水に浸し、弱火にかける。鳳凰領の井戸水で炊く粥。この水の味は帝都にはない。鳳凰領の地下を流れる霊脈がわずかに水に混じって、独特の甘みをもたらす。
ぐつぐつと粥が煮える音を聞きながら、麗華は厨房の窓から夜空を見上げた。
星が、たくさん出ていた。
鳳凰領の夜空。帝都では見られない、溢れるほどの星。
(帝都で——この星空が恋しくなるかしら)
粥が炊き上がった。蓋を取ると、白い湯気が天井に立ちのぼった。
一杯だけ、味見をした。
鳳凰領の味がした。
鳳凰領の粥が炊き上がった。蓋を取ると、白い湯気が天井に立ちのぼり、米の甘い香りが厨房を満たした。
鳳凰領の井戸水で炊いた粥。この水の味は帝都にはない。霊脈がわずかに水に混じって、独特の甘みをもたらす。帝都に行けば、この味は飲めなくなる。
一杯だけ、味見をした。
鳳凰領の味がした。
次にこの味を飲めるのは——帰ってきたときだ。
厨房の窓から外を見ると、星がまだ残っていた。もうすぐ夜明けだ。出発の朝が近い。
粥を小分けにして、保温用の壺に入れた。旅立ちの朝に皆で食べるためだ。暁風と翠微の分も。
翠微が厨房に顔を出した。寝ぼけた目をこすりながら。
「先生……まだ寝てないんですか」
「粥を炊いていたの。明日の朝ごはん」
「先生は前日から仕込むんですね。あたしなら朝起きてから作るのに」
「前日から仕込むのが、美味しい粥の秘訣よ。米を水に浸す時間で味が変わるの」
「そうなんですか。勉強になります」
翠微が眠そうに頷いて、また寝室に戻っていった。
麗華は厨房の窓を閉め、火を落とした。
(帝都で——この星空が恋しくなるかしら)
鳳凰領の夜空。帝都では見られない、溢れるほどの星。この星空の下で三年間戦った。この星空の下で暁風と出会い、翠微を見出し、食糧で国を詰ませ、祖父の秘密を知り——そして、建て直す道を選んだ。
全てが、この星空の下で起きた。
明日、この星空を背にして出発する。
だが——必ず帰ってくる。この食卓に。この星空の下に。
翌朝、粥を温め直した。昨夜仕込んだ粥は一晚で味が馴染んで、米の甘みがさらに増している。
四つの椀に粥をよそった。麗華、暁風、翠微。そして——老太爺の分。
老太爺の部屋に粥を届けた。眠っている祖父の枕元に椀を置いた。食べられるかどうか分からない。だが——置かないという選択肢はない。
「祖父様。朝粥です。——行ってまいります」
椀から立ちのぼる湯気が、老太爺の顔を優しく包んだ。




