暁風の忠義
合意が成立した日の夕刻。
暁風は承乾の前に進み出た。
「陛下。一つ、申し上げたいことがあります」
承乾は椅子に座ったまま、暁風を見上げた。夕日が窓から差し込み、皇帝の横顔を橙色に染めている。
「何だ」
「臣は——この三年間、鳳凰領で多くのものを見ました。荒地化の進行。領民の暮らし。麗華殿の戦い。そして——この国が本当に必要としているものを」
「ああ」
「臣は陛下に忠義を誓った身です。その忠義は今も変わりません」
「分かっている」
「ですが——臣の忠義は、陛下お一人に向いているのではなく、この国に向いています。陛下がこの国のために動かれるなら、臣は全力で支えます。そして——」
暁風は一度言葉を切った。喉が乾いている。額に汗が浮いている。戦場で剣を振るうときよりも、今この瞬間のほうが緊張している。
「——麗華殿と、同じ方を向いております」
沈黙が落ちた。夕暮れの風が窓から入り、灯台の炎を揺らした。
承乾の目が細くなった。
「同じ方を向いている——か」
「はい」
「それは、将軍としてか。それとも」
暁風は真っ直ぐに承乾を見た。この目を逸らしたら、一生後悔する。
「両方です」
承乾は椅子の背に身を預けた。天井を見た。しばらく黙っていた。灯台の火が揺れる音だけが、室内に響いている。
暁風は身動きせず待った。将軍の姿勢で。だが心臓は、将軍とは思えない速さで打っている。
「……暁風。お前は昔から正直だった。嘘がつけない男だ。だからこそ朕はお前を信じてきた」
「はい」
「今の言葉も——正直だな」
「はい」
承乾がゆっくりと顔を暁風に戻した。皇帝の目に——怒りはなかった。複雑な感情が渦巻いているようだったが、それを押さえ込む意志の力があった。
「朕にとって、お前は最も信頼できる臣下だ。その信頼は変わらん。——だが、将軍としてだけでなく、お前個人としてもお前を尊重する」
「陛下——」
「麗華のことは——分かっていた。書簡の文面を見れば分かる。あの文面を書ける男は、監視対象に心を動かされた男だ」
暁風の耳が赤くなった。書簡の文面にそこまで感情が出ていたとは——本人に自覚はなかった。
「お前の忠義がこの国に向いていて、麗華と同じ方を向いているなら——朕が止める理由がない。むしろ、二人がこの国のために並んでくれるなら、朕にとってこれ以上の力はない」
「……ありがとうございます」
「礼は要らん。ただし」
承乾が少しだけ笑った。その笑みに——微かな寂しさが混じっていることに、暁風は気づいた。
「麗華を泣かせたら——朕が許さんぞ。元夫としてではなく、為政者として」
暁風は一瞬だけ面食らった顔をしてから、深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
承乾が頷いた。
暁風は客間を出て、廊下を歩いた。夕日が廊下の板張りを橙色に染めている。裸足で歩くと、日に温められた木の温もりが足の裏に伝わった。
麗華が廊下の先に立っていた。
目が合った。
麗華の目に、問いがあった。何を話したのか、と。夕日を背にした麗華の輪郭が、金色に縁取られている。
「……陛下に、伝えた」
「何を」
「俺の忠義は、あなたと同じ方を向いていると」
麗華の瞳が微かに揺れた。琥珀色の瞳が、夕日の光を受けて金色に輝いている。
「それは——忠義の話?」
「忠義の話だ。——それだけじゃないが」
暁風は視線を逸らした。耳がまだ赤い。
「……それだけじゃない、の部分は」
「今は言えん。順番がある」
麗華は微笑んだ。後宮の微笑みではなく、ただの女の——柔らかい微笑み。
「順番——ね」
二人は並んで廊下を歩いた。
夕日が長い影を作っている。廊下の窓から差し込む斜光が、暁風の横顔を照らしていた。日焼けした肌に、疲労と——安堵が同居している。
「暁風殿」
「ああ」
「夕餉が済んでいないでしょう。今夜は——干し肉と葱の雑炊を作るわ。身体が温まるから」
「……頼む」
「あら、素直ね」
「腹が減っているときに遠慮はしない」
麗華は微笑んだ。
厨房に向かいながら、暁風が半歩後ろを歩く。その距離が——護衛のそれではなく、寄り添う者のそれに変わっていることに、麗華は気づいていた。
暁風が隣にいる。
その事実が——今日は、いつもよりほんの少し、温かかった。
厨房で鍋に湯を沸かし、干し肉を戻す。葱を刻む。残り飯を入れて弱火で煮る。雑炊の湯気が天井に白く立ちのぼり、厨房が温かくなった。
二つの椀に盛り、卓に並べた。
暁風が一口食べて、箸が止まった。
「……旨い」
「知ってるわ」
二人の食卓に、夕暮れの最後の光が差し込んでいた。
翠微が厨房に顔を出した。
「先生、暁風さん。あたしの分もありますか」
「あるわよ。座りなさい」
翠微が三つ目の椀を持って卓についた。雑炊を一口食べて、ぱっと顔が輝く。
「美味しい。干し肉の出汁が効いてる」
「葱をもう少し入れたかったのだけれど、切らしてしまって」
「十分ですよ。——先生の料理は、何を食べても温かいんです」
翠微がもう一口。暁風がもう一口。二人の食べっぷりを見ながら、麗華は自分の椀にも箸をつけた。
雑炊は質素だった。宮廷の料理人が見たら鼻で笑うような一品だ。残り飯と干し肉と葱。それだけ。
だがこの食卓には、三人がいる。暁風がいて、翠微がいて、麗華がいる。それだけで——十分に温かい。
(承乾の条件は受け入れた。暁風は忠義を再定義した。翠微は成長している。春蘭は鳳凰領を守っている。祖父は眠っている。そして私は——)
麗華は椀を持ち上げ、最後の一口を啜った。
(建て直す道を——選んだ)
厨房の小さな窓から、最後の夕日が消えていった。代わりに、灯台の火が三人の顔を照らしている。
明日から——新しい旅路が始まる。暁風と、翠微と、共に。
灯台の火が、静かに揺れていた。




