麗華の逡巡
承乾が条件を提示した夜、麗華は一人で書斎にこもった。
灯台に火を入れ、窓を開けた。夜風が入ってくる。初夏の風に混じって、畑の土の匂いがした。まだ生きている土の匂い。湿った黒土の、どこか甘い香り。この香りが鳳凰領からなくなる日が来るのだと思うと、胸の奥が冷たくなった。
椅子に腰を下ろし、目を閉じた。
(朝廷と手を組む)
その言葉を、もう一度、胸の中で転がしてみた。歯の裏に苦い味が広がるような言葉だ。
(復讐を——捨てるのか?)
廃妃の夜が蘇る。
後宮の門を出たとき、麗華の背後で門が閉まった。あの重い音。木と鉄が打ち合わさる、二度と戻れないという音。門の閂が落ちる金属音が、廊下に反響して消えた。
振り返らなかった。笑顔のまま、前を向いて歩いた。侍女たちの嗚咽が背後から聞こえた。春蘭だけが泣かなかった。春蘭は麗華の半歩後ろで、いつも通りの顔をしていた。
そして鳳凰領に戻り、三年間戦った。
食糧で朝廷を詰ませた。官糧を止め、品目を制限し、帝都の権力者の食卓を空にしていった。翡翠粥が消え、白米が消え、やがて雑穀さえ不足し始めた。宰相の食卓から米が消えたと聞いたとき、麗華は笑った。後宮で「微笑みの貴妃」と恐れられた笑みを。
あれは——復讐だった。
復讐であり、自衛であり、鳳家と領民を守るための戦略でもあった。だが根底にあったのは、切り捨てられたことへの怒りだ。
(壊すことは、いつでもできた)
麗華は目を開けた。
(朝廷を完全に潰すことも、食糧を全面的に止めて帝都を飢えさせることも、やろうと思えばできた。でも——やらなかった)
なぜやらなかったのか。
民を飢えさせたくなかったから。市井の人間に罪はないから。
そう思っていた。それは確かに理由の一つだ。
だがもう一つ、認めたくなかった理由がある。
(壊した先に——何もないからだ)
朝廷を潰せば、瑛朝は崩壊する。食糧の流通は混乱し、各地で飢饉が起き、最終的に苦しむのは民だ。
麗華は知っていた。食糧で国を詰ませることの代償を。
幼い頃、祖父に連れられて鳳凰領の外に出たことがある。荒地の端にある集落で、飢えた子供を見た。腹が膨れ、手足が細く、目だけが大きい子供。祖父は何も言わずに持っていた干し飯をその子に与えた。子供が干し飯を齧るときの音が——今も、耳に残っている。
あの目を——忘れたことはない。
(壊すことはいつでもできた。でも壊した先に、あの目をした子供が増えるだけだ)
麗華は立ち上がり、窓辺に行った。
南の空が暗い。荒地の上には星が映えない。灰色の大地が夜の闇に溶け込み、そこだけ空が低く見える。かつてあの方角にも畑があり、集落があり、食卓があった。
(ならば——)
問いを変えてみた。
壊さないなら、どうするのか。
食糧で詰ませた先に何がある。国をこのまま兵糧攻めにし続けて、何を得る。
答えは——空の食卓だ。誰も満たされない。
(私は食で人を生かすことを知っている)
厨房に立つとき、麗華は考える。この一皿が誰の腹を満たし、誰の一日を支えるのかを。米を研ぐたびに思う。この一粒が人の命を繋ぐのだと。
食は武器になった。だが食は——本来、命を繋ぐものだ。
(壊すことは、いつでもできた。壊す力があるからこそ——建て直すことを選べる)
麗華は書斎に戻り、椅子に座った。
帳面を開いた。白紙。
筆を取った。
明日、皇帝に答えを伝えなければならない。「この国をどうしたい」という問いに。「朝廷と、どうしたい」という問いに。
麗華は筆先に墨を含ませた。
まだ——書けない。
だが書けない理由が、昨日とは変わっている。
昨日は、恐怖が筆を止めていた。朝廷に手を伸ばすことへの恐怖。あの門の音が蘇り、手が竦んだ。
今夜は——覚悟が、まだ形になっていない。
形にならなければ、言葉にならない。言葉にならなければ、伝えられない。
灯台の火が揺れた。芯が短くなっている。油を足さなければ消える。
麗華は灯台に油を注いだ。火が明るくなり、白紙が照らされた。
まだ白い紙。
その白さが——可能性に見えた。何でも書ける紙。壊す言葉も、建て直す言葉も、どちらも書ける紙。
(選ぶのは、私だ)
麗華は白紙を見つめたまま、夜を越そうとしていた。
窓の外で、鳳凰領の夜鳥が一声鳴いた。その声が闇に溶けるように消えて、また静寂が戻る。
足音がした。
軽く、だが確かな足音。廊下を歩く誰かの。
書斎の扉が控えめに叩かれた。
「先生。起きてますか」
翠微だった。
「入りなさい」
扉が開き、翠微が顔を出した。寝巻き姿で、手に湯呑みを持っている。
「眠れなくて。それで先生の部屋に明かりが見えたから——」
「お茶?」
「はい。生姜湯です。あたしが作りました。先生、最近あんまり食べてないから」
翠微が湯呑みを卓に置いた。生姜の香りが書斎に広がる。ぴりりとした辛味の香り。身体が温まる匂いだ。
麗華は湯呑みを手に取った。一口啜ると、生姜の熱さが喉を通り、胃の中でじわりと温かくなった。
「ありがとう、翠微」
「先生。何を考えてるんですか」
「……この国のこと」
「大きいこと考えてますね」
翠微は無邪気に笑った。
「あたしには難しいことは分かりません。でも——先生が考えて出した答えなら、きっと正しいです」
「どうしてそう思うの」
「先生はいつも、食べる人のことを考えて料理するでしょう。その人と同じやり方で国のことを考えたら——きっと、誰かを飢えさせるような答えにはならないです」
麗華は湯呑みを見つめた。翠微の生姜湯。素朴で、荒削りで、でも温かい。
(この子は——時々、核心を突くのよね)
「翠微。もう寝なさい。明日も早いわ」
「はい。——先生も、ちゃんと寝てくださいね」
翠微が出ていった。
書斎に生姜の香りが残っている。
麗華は生姜湯を飲み干し、白紙に向き直った。
まだ書けない。だが——温かくなった。身体も、心も。




