皇帝の覚悟
翌日の午後、承乾が改めて麗華を呼んだ。
今度は暁風も同席している。三人が卓を囲む形になるのは、歓待の宴以来だ。だが今日の空気は宴とは違う。政の空気だ。
承乾は卓の上に白紙を広げ、自ら筆を取った。硯で丁寧に磨った墨の香りが室内に漂い、承乾の筆先が白紙の上を滑り始めた。達筆で知られる皇帝の字は端正で、一画ごとに迷いがない。
「朕の考えを述べる。昨夜、一晩かけて整理した」
「まず、朝廷は鳳凰領に全面的に協力する。これは決定事項だ。荒地化を放置すれば瑛朝が滅ぶ。協力しない理由がない」
白紙に書き始めた。
一、玄天閣の古文書を全面開示する。
二、地養術の後継者育成を国家事業として支援する。
三、霊脈再生を朝廷の最優先事業とする。
「ここまでは、技術的な支援だ。次に政治的な措置」
四、鳳麗華の名誉を回復する。廃妃の詔を撤回し、正式な謝罪を朝廷から出す。
五、鳳凰領の自治権を改めて保証する。
六、蘇家に対する処分を最終確定する。
筆を置いた承乾が、白紙を麗華のほうに回した。墨がまだ乾ききっていない。
「以上が朕の提示する支援と措置だ。——異論はあるか」
麗華は書かれた内容を一つずつ確認した。承乾の筆跡は力強い。一晩かけて迷い尽くした後の結論であることが、文字の力みから読み取れる。
「古文書の開示、後継者育成の支援、最優先事業化。ここまでは異論ありません」
「名誉回復は?」
「名誉回復の形について、確認させてください。廃妃の詔を撤回するとは、具体的にどのような——」
「後宮への復帰を求めるなら、それも——」
「不要です」
麗華はきっぱりと言った。声に刃がある。暁風が壁際で微かに口角を上げたのを、承乾は見逃さなかった。
「後宮に戻るつもりはありません。私の名誉は、後宮の位階ではなく、この国の再建への貢献で示します」
承乾が少し目を見開いた。後宮復帰を提案することが最大の譲歩だと思っていたのだろう。
(やはり。この男はまだ、後宮を女の最高到達点だと考えている。三年前よりはましだけれど——まだ甘い)
内心の毒舌は口にしない。微笑みで覆い隠す。
「……廃妃の詔の撤回だけでは不足か?」
「撤回は結構です。ただし、私を朝廷の臣下に戻すような形ではなく——対等な協力者としての立場を認めていただきたい」
「対等な協力者」
「はい。鳳凰領の主として、朝廷と対等に霊脈再生に取り組む。命令系統に組み込まれるのではなく、協議と合意のもとに」
承乾は筆を置いた。
「お前はいつも——朕の想定の一歩先を行くな」
「当然です。三年間、朝廷の三手先を読んで生きてきましたから」
暁風が口元を微かに緩めた。
承乾は白紙に追記した。
四(修正)、鳳麗華の名誉を回復する。廃妃の詔を撤回し、鳳凰領の主として朝廷と対等の立場で霊脈再生事業に参画する地位を正式に認める。
「これでいいか」
「はい」
承乾は筆を置き、麗華を見た。
「麗華。朕は良き君主になる」
その言葉に——虚勢はなかった。声が低く、静かで、だからこそ重い。
「良き君主になることが、お前への返答であり、この国への誠意だ。過ちは取り消せない。だが——過ちの後にどう生きるかは、朕が決める」
麗華は少し目を伏せた。
(この男は——本当に変わった)
三年前、三日間眠れずに廃妃の詔を下した青年が——今、自分の言葉で、自分の意志で、国のあり方を語っている。趙文昌の受け売りではない。承乾自身の言葉だ。
「陛下」
「何だ」
「お言葉を——信じてみます。すべてではなく、まずは少しだけ」
承乾が微笑んだ。
「少しで十分だ。残りは——行動で示す」
暁風が姿勢を正した。
「陛下。臣からも一つ」
「何だ」
「お帰りの際に——この地図の写しをお持ちください。朝廷の臣下にも、荒地の現状をお見せになるべきです。数字よりも地図のほうが、人の心を動かします」
承乾が頷いた。
「暁風。お前が橋渡しをしてくれたおかげで、朕はここに来られた。——礼を言う」
「礼は要りません。陛下が良き君主になると仰るなら、臣はそれを支えるのみです」
夕暮れの光が窓から差し込んでいた。橙色の光が白紙の上の墨文字を暖かく染めている。
三人の影が、卓の上の白紙に長く伸びていた。
かつて廃妃を命じた皇帝と、監視を命じられた将軍と、廃妃にされた女。三年の歳月が、その三角形を全く別のものに変えた。
窓の外では、鳳凰領の畑が夕日に染まっている。金色の穂が風に揺れ、用水路の水が橙色に輝いている。
春蘭が茶を運んできた。三人の茶碗に注がれた鳳凰領の山茶が、夕日を受けて琥珀色に透ける。
承乾が茶を一口啜り、目を細めた。
「この茶も——宮廷にはない味だ」
「山の野草を乾かしただけの粗末なものです」
「粗末だからこそ美味い。宮廷の茶は、茶葉よりも器のほうが高い」
麗華は茶碗を持ち上げた。温かい陶器の感触が掌に馴染む。
(この食卓を——守るのよ。鳳凰領の食卓も、帝都の食卓も。荒地の向こうの、まだ見ぬ村の食卓も)
昨日の夜、承乾に問われた答え。それがようやく形になりかけていた。
卓の上の白紙に六箇条が刻まれている。乾きかけの墨が夕日に照らされ、文字が金色に見えた。
この六箇条は——新しい瑛朝の設計図だった。
まだ紙の上の文字にすぎない。だが明日から、これが現実になる。
暁風が茶碗を置いた。
「日が暮れる。——夕餉の支度は」
「翠微に任せたわ」
「翠微一人で大丈夫か」
「大丈夫よ。あの子は鳳凰領で一番、芋の煮物が上手なの」
暁風が口元を緩めた。承乾が怪訝な顔をする。将軍の笑顔を見たのは初めてなのだろう。
夕暮れの鳳凰領で、三人が茶を飲んでいる。
三年前には想像もできなかった光景だ。だが——悪くない光景だった。
茶の香りが、夜の空気に溶けていった。




