二人の対話
説明を終えた翌朝、承乾が麗華を呼んだ。
東の離れの客間。朝日が障子越しに差し込み、室内を柔らかく照らしている。障子の格子が床に影の模様を落とし、微かに揺れていた。外の枝で雀が鳴いている。鳳凰領の朝は、いつも鳥の声で始まる。今朝は特に多い。巣立ちの季節なのだろう。
承乾は卓の向こうに座っていた。昨夜から一睡もしていないようだった。目の下の隈が濃く、頬がこけて見える。だが目に曇りはなかった。むしろ——何かが定まった後の、静かな光がある。眠れなかった夜が無駄ではなかったことを、その眼差しが語っていた。
卓の上に朝餉の膳が二人分用意されていた。春蘭が気を利かせたのだろう。白粥と漬物と蒸し卵。鳳凰領の井戸水で炊いた粥は、ほのかに甘い。地下を流れる霊脈がわずかに水に混じるからだと、祖父が教えてくれた。蒸し卵はふるふると揺れ、表面に刻んだ葱が散らしてある。漬物は春蘭お手製の蕪の浅漬けで、塩加減が絶妙だ。質素だが身体に優しい朝の膳。
「座ってくれ」
麗華は対面に座った。膳に箸はつけず、姿勢を正して待った。
「麗華。一つ聞きたい」
「何でも」
「お前は——この国をどうしたい」
麗華は少し驚いた。
荒地化の対策や霊脈再生の条件について問われると思っていた。技術的な話、政治的な取引。麗華が得意とする領域だ。頭の中にはすでに数字と条件が整然と並んでいる。朝廷から引き出すべき支援の一覧。秘伝公開の段取り。後継者育成のタイムライン。
だが承乾が聞いたのは、もっと根本的な問いだった。
「この国をどうしたい、ですか」
「ああ。お前には力がある。食糧を握り、地養術を持ち、民の信頼を得ている。その力で——お前は、この国をどうしたい」
麗華は窓の外を見た。
鳳凰領の朝。畑で働く農夫の姿が見える。水路に朝日が反射して金色の線を引いている。農夫が鍬を振るうたび、黒い土が返る。生きている土の色だ。南部ではもう見られない色。あの農夫が耕している畑も、三年後にはあるかどうか分からない。
「……三年前なら、別の答えを言ったでしょうね」
「三年前なら?」
「廃妃にされた直後の私なら——『この国の食卓を空にして、私を切り捨てた代償を払わせたい』と答えた」
承乾の目が微かに揺れた。だが逸らさなかった。三年前のこの男なら、目を伏せて黙り込んだだろう。
「今は?」
麗華は承乾に向き直った。
「今は——食卓を満たしたい。帝都の食卓も。鳳凰領の食卓も。荒地の向こうの、まだ見たことのない村の食卓も」
承乾は黙って聞いていた。手元の粥に箸をつけていない。湯気だけが白く立ちのぼり、二人の間を漂っている。
「食糧を武器にして朝廷を詰ませた。それは私の選択でした。後悔はしていません。あの状況で、他に手段がなかった」
「ああ」
「でも武器で詰ませた先にあるのは——空の食卓です。誰の腹も満たさない。誰の命も繋がない」
麗華は自分の手を見た。地養術で土に触れ続けた手。指先にうっすらと土の色が残っている。荒地を前に膝をついた手。それでも——何かを作り出せる手。粥を炊き、人を生かす手。
「食は武器になる。でも本来は——命を繋ぐものです。私はそれを、もう一度取り戻したい」
承乾が深く息をついた。朝日が差し込む窓辺で、皇帝の肩から力が抜けた。為政者の鎧の下の、ただの二十二歳の青年の表情が、一瞬だけ見えた。
「……お前に、もう一つ聞いていいか」
「はい」
「朕のことを——許せるか」
麗華は少し考えた。
窓の外では農夫が畑の畝に沿って歩いている。水路の水が畑に流れ込み、土を潤していく。朝の作業だ。日常の風景。この日常を守るために三年間戦ってきた。そしてこの日常が、いつまで続くか分からない。
「正直に申し上げます」
「頼む」
「今はまだ、分かりません。許すかどうかは——これから先の陛下を見て、決めます」
「厳しいな」
「当然です。三年分の答えを、一晩で出せるものではありません」
承乾が微笑んだ。苦い微笑みだったが、逃げてはいなかった。三年前の少年の曖昧さはなく、痛みを引き受ける覚悟が滲んでいる。
「もっともだ。では——朕はお前に、これから先の行いで答えを示そう」
朝日が二人の間に差し込んだ。卓の上の粥から白い湯気がゆっくりと立ちのぼっている。蒸し卵の表面に朝日が反射して、金色に光った。
「麗華。お前に問いたい。お前は——この国をどうしたい」
「先ほどお答えしました」
「いや、もう一歩踏み込んだ問いだ。——朝廷と、どうしたい」
麗華は息を呑んだ。
それは——最も答えにくい問いだった。
朝廷を潰したいわけではない。だが信頼もできない。かつて切り捨てた相手と手を組むことへの抵抗が、まだ胸の中にある。廃妃の夜に閉まった門の音が、まだ耳の奥に残っている。木と鉄が打ち合わさる、重く冷たい音。
「……考えさせてください。一晩」
「待とう」
承乾は頷いた。その一言に、かつてなかった余裕がある。三年前の承乾は「待つ」ことができなかった。趙文昌に急かされ、蘇家に押され、結論を焦った。今は——待てる。それだけで、この男が変わった証だと麗華は思った。
麗華は立ち上がった。扉に手をかけたとき、承乾が背後から声をかけた。
「麗華」
「はい」
「朝粥を、もう一杯もらえるか。翡翠粥を」
麗華は振り返った。
皇帝が——粥をねだっている。三年前なら考えられない光景だった。宮廷では侍従が運ぶ膳を黙って受け取る。自分から料理を頼むなど、宮廷の作法にはない。
「……お作りします」
厨房に向かいながら、麗華は思った。
(この国をどうしたい、か)
答えは——もう、心の奥にあるような気がしていた。言葉にする勇気がまだ足りないだけで。
厨房に入り、青菜を洗う。流水で泥を落とし、一枚一枚丁寧に洗う。茹でて、すり潰し、粥に練り込む。弱火でことことと煮る。翡翠粥の仕込みは手間がかかる。だがその手間こそが——食で人を生かすということだ。
薄緑色の粥が完成した。胡麻油をひと筋。白い油が翡翠色の上を流れていく。
椀に盛り、盆に載せて客間に戻った。
承乾は窓辺に立っていた。畑を見ている。振り返ったとき、その目が——少しだけ潤んでいたように見えた。
「お待たせしました」
「……ありがとう」
皇帝が「ありがとう」と言った。
粥のために。
麗華は微笑んだ。答えの輪郭が——はっきり見えた気がした。




