歓待の宴
宴は、本邸の広間ではなく麗華の私室の隣の小部屋で開かれた。
卓は一つ。椅子は四脚。承乾、麗華、暁風、そして——春蘭が給仕を務める。翠微は厨房で火の番をしている。
「狭いな」
承乾が室内を見渡して言った。窓は一つしかなく、掛け軸もない。宮殿の宴席とは比べるべくもない質素な部屋だった。
「宮殿の宴に慣れた陛下には窮屈でしょう。ですが——」
「いや。これでいい。大臣が十人並ぶ宴より、こちらの方が話ができる」
承乾の声には、不思議な安堵が混じっていた。
麗華は春蘭に目配せした。
春蘭が料理を運んできた。
まず、白湯の鍋が卓の中央に置かれた。乳白色の濃厚な出汁が、ぐつぐつと煮えている。鳳凰領の地鶏を丸ごと一羽使い、八刻かけて煮出した出汁だ。鶏の脂が溶け込んだ白濁した液体からは、甘く深い香りが立ちのぼり、狭い部屋いっぱいに満ちた。
脇に野菜の皿。地養の畑で育った白菜、蕪、蓮根。山から採ってきた茸の盛り合わせ。白菜は葉が瑞々しく、蕪は掌に収まるほどの小ぶりなもので、切り口が雪のように白い。
白飯は、鳳凰領の新米。蓋を取ると、甘い蒸気が立ちのぼった。一粒一粒が透き通るように輝いている。地養術で育てた米は、粒が大きく、噛むほどに甘みが増す。
そして——翡翠粥。
承乾の箸が止まった。
「これは——」
「翡翠粥です。覚えていらっしゃいますか」
承乾は粥を見つめた。
青菜を練り込んだ薄緑色の粥。滑らかな表面に、白い胡麻油がひと筋流れている。ほのかに青草の香りがする——春の野を思わせる、清澄な香りだった。
「……覚えている」
承乾の声が低くなった。
「後宮にいた頃、お前はよく朕に茶菓子を作ってくれたな。この粥も——一度だけ、朝餉に出してくれた」
「陛下がお風邪を召されたときです。熱があるのに政務を続けようとなさるから、私が厨房に入って」
「ああ。あのときの粥だ」
承乾は箸を取り、粥を一口含んだ。
しばらく、目を閉じていた。
唇が微かに動く。味わっているというよりも、記憶を辿っているような表情だった。
「……味は、あのときと同じだ」
「同じ作り方です」
「だが——前とは違う味がする。不思議だな」
「何が違いますか」
承乾は目を開けた。瞳に、遠い光が宿っていた。
「前は——美味いとしか思わなかった。今は、この一杯にどれだけの手間と土と水がかかっているかが分かる」
麗華は微笑んだ。
「それは——陛下が変わったということです」
暁風が黙って白湯の鍋から鶏肉を自分の椀に取った。一口食べて、箸が止まる。鶏肉は八刻の煮込みで骨から外れるほど柔らかく、白湯の旨味をたっぷり含んでいる。
「旨い」
「暁風さんはいつもそれだけですね」
春蘭が小声で突っ込んだ。
「事実だ」
承乾が暁風を見た。将軍の表情が食卓で崩れる様を、物珍しげに眺めている。
「暁風。お前は……ここに馴染んだな」
「陛下」
「いや、責めているのではない。見れば分かる」
承乾は白湯を一口啜り、目を細めた。濃厚な出汁が喉を通る温もりに、皇帝の肩から力が抜けたのが分かった。
「この食卓は——朝廷にはないものだ。宮廷の宴は、味よりも格が先に来る。器が豪華で、品数が多く、そして——誰も本音を言わない」
「陛下」
麗華が穏やかに言った。
「この食卓には、格はありません。あるのは味だけです。——そして、話をする場です」
承乾が頷いた。
「では、話をしよう。——食べながら」
三人は鍋を囲んだ。
白湯の鍋は、食べ進めるほどに出汁の旨味が濃くなる。野菜が出汁を吸い、茸が香りを添え、鶏肉は骨まで柔らかい。蕪を鍋に入れると、透き通るほどに煮えて、箸で持ち上げた瞬間にほろりと崩れた。その甘さが出汁の深みと溶け合い、身体の芯まで温まる味になる。
食卓を通じた対話が始まった。
それは——和解ではなく、再会だった。
三年間の歳月を経て、立場が変わり、感情が変わり、見えるものが変わった三人が、同じ鍋を囲んでいる。
翠微が厨房から追加の野菜を持ってきた。湯気で紅潮した頬に、白い蒸気がまとわりついている。
「先生、蕪がなくなりました。追加です」
「ありがとう、翠微」
承乾が翠微を見た。
「この娘が——地養術の後継者か」
「はい。沈翠微です」
翠微はぎくしゃくと頭を下げた。
「し、失礼します。あたし、皇帝陛下とお話しするのは初めてで——」
「緊張しなくていい。蕪は美味かった」
翠微が目を丸くした。皇帝が蕪を褒めた。農家の娘が育てた蕪を。
「あ……ありがとうございます」
声が裏返っている。春蘭が後ろで肩を揺らして笑いを堪えていた。
麗華は静かに微笑んだ。
食卓は——こういう場所だ。身分も恩讐も超えて、ただ「旨い」と言い合える場所。
鍋の出汁が残り少なくなった頃、承乾が箸を置いた。白湯の底に沈んだ鶏の骨が、長い煮込みで飴色に変わっている。皇帝の顔からも、即位以来まとっていた硬い表情が消え、どこか満ち足りた穏やかさが漂っていた。
「麗華。——この食卓を、帝都にも作れるか」
「陛下が望むなら」
「望む。——いや、望むだけではない。必要だ」
承乾の目が真っ直ぐに麗華を捉えた。
「荒地化の報告を、聞かせてくれ」
その声には——覚悟があった。
麗華は頷いた。食卓の温もりがまだ残る部屋の中で、次の話は冷たいものになるだろう。だが、温かいものを分け合った後だからこそ——聞ける話がある。
春蘭が鍋を下げ、代わりに茶の支度を始めた。鳳凰領の山茶だ。素朴な香りが、白湯の余韻に重なる。
暁風が壁際に椅子を引き、姿勢を正した。食卓のときとは違う——将軍の背筋だった。
麗華は茶碗を両手で包み、一口だけ啜った。
(さて。ここからが——本題ね)
内心で呟きながら、微笑みは崩さなかった。




