迎える準備
皇帝の来訪まで五日。
鳳凰領は静かな慌ただしさに包まれた。
暁風は護衛の配置を練り直した。皇帝が「供回りは最小限」と言っているが、将軍として最低限の警備は譲れない。鳳凰領の兵と暁風の手勢を合わせ、街道筋と本邸周辺の哨戒を強化した。地図を広げ、進入経路と退路を確認し、夜間の見張りの交代表を作成する。暁風の字は武骨だが読みやすい。軍人らしい字だ。
春蘭は宿所の準備に奔走している。東の離れの掃除、寝具の手配、灯火の調整。百年前に建てられた離れは普段使われておらず、埃を払い、畳を干し、障子を張り替えるだけで丸一日を費やした。寝具は鳳凰領の最上等の綿を使った布団を出し、枕には乾燥させた菊の花弁を詰めた。菊枕は安眠を誘うとされ、後宮でも使われていたものだ。
翠微は「あたしも何かしたいです」と申し出て、荒地化の最新データを地図にまとめる作業を任された。皇帝に現状を説明する際の資料になる。翠微の手描きの地図は素朴だが正確で、霊脈の感知能力を活かしたポイントの記載は、どんな学士院の地図よりも実態に即していた。
そして麗華は——厨房にいた。
「お嬢様、献立は決まりましたか」
「ほぼ決まったわ」
麗華は卓に品書きを広げた。
筆頭は鳳凰領の地鶏を使った白湯の鍋。地養術で育てた野菜と、山間部で採れる茸を合わせる。地鶏は骨ごと八刻煮込む。じっくりと煮出した乳白色の出汁は、一口含めば骨の髄の旨味が舌に広がり、胃の奥までじんわりと温めてくれる。
次に、鳳凰領の新米で炊いた白飯。荒地化で生産量が落ちているが、この宴のために上等の米を残してある。粒が大きく、噛むと甘みが口いっぱいに広がる鳳凰領特有の品種だ。
香の物、青菜の炒め、蓮根の甘酢漬け。蓮根は鳳凰領の池で育てたもので、歯切れがよく、甘酢に浸けると翡翠色に透ける。
そして——翡翠粥。
「翡翠粥を?」
春蘭が声を上げた。
「ええ。あれは——後宮にいた頃、皇帝が好んだ粥よ。青菜を練り込んで翡翠色にする。仕上げに胡麻油をひと垂らし。滑らかな舌触りと、青菜のほのかな苦味が特徴の一品」
「後宮の記憶を呼び起こす品ですね」
「そう。あえて出す。『覚えていますよ』という意味を込めて」
春蘭は黙って頷いた。この主人が食卓に込める意味を、春蘭は誰よりも知っている。
麗華は食材の確認に移った。地鶏は明日の朝に締める。新鮮な鶏でなければ白湯の出汁は濁る。野菜は前日に収穫。白菜は外葉を落とし、蕪は皮を剥いて水に晒す。茸は山間部の農夫に頼んであり、明後日に届く手筈だ。米は三日前から水に浸す。鳳凰領の井戸水で浸した米は、霊脈の微かな力を吸って独特の甘みを帯びる。
手を動かしながら、麗華は考えていた。
食卓を通じた対話。それが麗華のやり方だ。言葉で伝えられないことを、料理の一皿に込める。食材の産地を選ぶことで土地の力を語り、味付けの加減で感情を示し、器の選び方で敬意を表す。
(あの男に——伝えたいことがある)
廃妃にされた恨み。三年間の孤独。食糧で国を揺さぶった覚悟。そして今——共に国を建て直したいという決意。
全てを言葉にはできない。だが食卓なら、伝わるかもしれない。
暁風が厨房を覗いた。入口の柱に肩を預け、腕を組んでいる。
「準備は順調か」
「ええ。あなたの分もあるわよ」
「俺の分はいい。皇帝の膳が先だ」
「あなたも食べるの。——みんなで同じ食卓につくわ」
暁風は一瞬だけ表情を動かした。眉が僅かに上がり、目元が緩んで——すぐに引き締まった。
忠義を捧げた主君と、想いを寄せる女が、同じ食卓につく。
暁風にとって、この宴は単なる歓待ではない。三つの立場——皇帝の将軍、鳳凰領の防衛者、そして麗華の傍にいる男——が、一つの食卓で交わる場だ。
「……分かった。食う」
「よろしい」
麗華は微笑んだ。暁風の不器用な承諾が、どんな返事よりも温かかった。
夕刻、翠微が厨房に顔を出した。三つ編みの先が廊下の角からひょこりと現れ、次いで好奇心に満ちた目が覗く。
「先生、お手伝いします」
「翠微は資料のまとめを優先して」
「もう終わりました。地図も清書しました。霊脈ポイントも全部書き込みましたよ」
「早いわね……」
「だって気になるんですもん。先生、何を作るんですか。すごくいい匂いがします」
厨房には鶏骨の下茹での匂いが漂い始めていた。骨を砕いて水から煮出し、灰汁を丁寧に引く。この下茹でが白湯の出来を左右する。
「まだ仕込みの段階よ。本番は五日後」
「五日後が楽しみです」
翠微が嬉しそうに笑った。日に焼けた顔に白い歯が覗く。この子の笑顔には、どんな飾りも敵わない。
麗華はその笑顔を見て、ふと思った。
(この子は——食卓の持つ力を、知っている)
農家の娘だ。食べることの喜びを、身体で知っている。収穫の日に家族で囲む食卓の温かさを。不作の年に薄い粥をすする辛さを。
その翠微が笑うなら——この食卓は、きっと大丈夫だ。
「先生」
「何」
「皇帝陛下って、先生のお料理食べたことあるんですか」
「あるわよ。後宮にいた頃に何度か」
「じゃあ——先生の味を覚えてるんだ」
「……どうかしらね。三年も前のことだもの」
「覚えてますよ、きっと。先生の料理は——忘れられない味ですもん」
翠微が断言した。麗華は思わず笑った。
「ありがとう。あなたにそう言われると、自信が出るわ」
翠微が照れたように頭を掻いて、厨房を出て行った。
一人になった厨房で、麗華は鶏骨の鍋の火加減を調整した。弱火。じっくりと。焦らず。
五日後の食卓が——全てを動かす。
鍋の中で出汁がゆっくりと乳白色に変わっていく。その色の変化を見つめながら、麗華は皇帝の顔を思い浮かべていた。
三年前の少年の面影は、もう残っていないのだろうか。
書簡の字は変わっていた。ならば——顔も、変わっているはずだ。
鍋から立ち昇る湯気が、厨房の天井に白く広がっていった。




