皇帝の返書
皇帝の封書は、朝廷の正式な印で封じられていた。
濃い朱の蝋が、鳳凰の意匠を押し固めている。蝋の表面はまだ僅かに温かかった——早馬が休みなく駆けた証拠だ。三日で帝都から鳳凰領まで。それだけでも異例の速さだった。
麗華は執務室に戻り、封を切った。暁風と春蘭が傍に控えている。窓の外では初夏の風が木々を揺らし、遠くの畑で農夫たちの声がかすかに聞こえていた。陽射しが書簡の上に斜めに差し込み、朱蝋の破片がきらりと光った。
書簡を広げた。
皇帝の字は相変わらず端正だった。一画一画に迷いがなく、だが以前よりも力強い。筆圧が均一で、かつて側近に操られていた頃の繊細さとは明らかに異なる——自分の意志で書いた字だ。墨の色も濃い。上等の松煙墨。皇帝が自ら硯を擦ったのだろうか。
——鳳麗華に告ぐ。
——書簡は受け取った。荒地化の報告、霊脈震の周期、霊脈再生に必要な条件——すべて読んだ。
——会談を申し入れる。来るのは朕だ。
麗華は目を見張った。
読み返した。一字ずつ、指でなぞるように。
——来るのは朕だ。
「……皇帝が、来る?」
暁風が身を乗り出した。椅子が軋む音が執務室に響いた。
「何と書いてある」
「皇帝が——自ら鳳凰領に来ると」
春蘭が息を呑んだ。手に持っていた茶盆が微かに揺れ、湯呑みの茶が小さな波紋を描いた。
「皇帝が鳳凰領に? 前例がありません」
前例がないのは当然だ。皇帝が臣下の領地を訪問すること自体が異例であり、ましてや廃妃を命じた相手の領地に自ら赴くなど、朝廷の慣例を完全に逸脱している。皇帝の行幸には数百名の供回りと半年の準備が通例であった。それを「供回りは最小限」と書いているのだから、いかに異常な決断かが知れる。
書簡は続いていた。
——陸暁風が「来て、ご自身の目でご覧になってください」と書いていた。もっともだ。書面と数字では分からぬものがある。朕は自分の目で見たい。
麗華は暁風を見た。暁風は視線を僅かに逸らした。頬の筋肉が一瞬動いたが、表情は変えない。
「あなた、承乾に何を書いたの」
「事実を伝えただけだ。荒地の色。土の匂い。灰色の大地がどこまでも続く光景を——文字では伝わらないと」
——供回りは最小限にする。大臣も連れない。朕一人が行く。
「陛下が……ここに来る。廃妃を命じた男が、自分の足で」
麗華は書簡を卓に置いた。手が震えていた。指先の震えが書簡の端を微かに揺らし、紙が囁くような音を立てた。
暁風が書簡を手に取り、読んだ。暁風の目が文字の上を滑っていく。読み終えたとき、その顔に浮かんだのは驚きではなく——複雑な、言葉にし難い感情だった。
「……陛下らしい」
「らしい?」
「ああ。優柔だが、一度決めたら動きは速い。——それに、俺の言葉が効いたらしいな」
暁風の表情は複雑だった。忠義を捧げた主君が、想いを寄せる女のもとに来る。将軍としての忠誠と、男としての感情が、一瞬だけ暁風の目に交錯した。額の筋が僅かに動き、唇が一瞬引き結ばれ——だがすぐに、暁風は表情を戻した。軍人の顔だ。感情を制御し、目の前の問題に集中する顔。
「迎える準備が要る。護衛の配置、宿所の確保——」
「暁風殿」
麗華が暁風を見た。暁風が言葉を止めた。
「あなたは——大丈夫?」
「何がだ」
「皇帝が来ること。あなたの主君が来ること」
暁風は一瞬だけ黙った。執務室の窓から差し込む午後の光が、暁風の横顔に影を落としていた。顎の線が強張り、目元に一瞬だけ揺れが走ったが——それはすぐに消えた。
「大丈夫だ。俺は俺の立場を分かっている」
それ以上は何も言わなかった。暁風の腕が組まれる。考え事をしているときの癖だ。だが今日のそれは、考え事というよりも——自分を押さえ込む仕草に見えた。
春蘭が動き始めた。侍女頭の顔に切り替わり、指が帳面の上を走る。
「お嬢様。皇帝を迎えるなら、まず宿所の手配を。鳳家の本邸の東の離れが適当でしょう。寝具は上等の綿布を出し、灯火は蝋燭を二十本。それから警備の手配、食事の準備——」
「待って、春蘭。一つだけ先に」
麗華は立ち上がった。椅子が後ろに滑り、床に脚が擦れる音がした。
「食事は私が作る」
春蘭が眉を上げた。
「お嬢様が自ら?」
「ええ。皇帝に——食卓で迎えるわ」
食卓で人を迎えることは、麗華にとって最も誠実な意思表示だった。言葉で伝えられないことを、一皿に込める。相手の好みを覚えていることを、食材の選び方で示す。相手の変化を——味付けの変化で問いかける。
かつて「帝都の食卓が寂しくなりませんよう」と言い放った女が、自ら食卓を整えて皇帝を迎える。
それは——和解の第一歩を、食で示すということだ。
「わかりました。献立はお嬢様にお任せします」
春蘭は深く頷いた。その目に、理解の光があった。十五年間この主人に仕えてきた女は、麗華が「食事を作る」と言ったときの意味を正確に理解している。
麗華は窓の外を見た。
鳳凰領の午後。緑の畑の向こうに、灰色の荒地が広がっている。境界線はこちらに向かって、日ごとに少しずつ近づいてきていた。畑の穂先が風に揺れ、金と緑が陽射しの下でせめぎ合っている。そしてその向こう——灰色の大地は何も映さず、ただ静かに広がっていた。
皇帝が来る。
三年ぶりの再会が——近づいている。
(あの男が——自分の足で来る)
胸の中で、感情が渦を巻いた。怒り。期待。警戒。そして——ほんの僅かな、安堵のようなもの。
右手の人差し指が、無意識に左手首の内側を撫でていた。怒りを感じたときの癖だ。だがこの震えは、怒りだけのものではなかった。
麗華は指を止め、深く息を吐いた。
書簡を丁寧に折り畳み、卓の引き出しに仕舞った。皇帝の字が、暗がりの中に消えていく。
三年前、この手で食糧を絞り、帝都の権力者の食卓を空にした。翡翠粥が消え、白米が消え、やがて雑穀さえ底をつきかけた。あの兵糧攻めの始まりは、この執務室の同じ卓の上だった。
今、この手で食卓を整え、皇帝を迎える。
同じ手だ。同じ技術だ。同じ女だ。
だが——意味が違う。
厨房の方角から、昼餉の支度の匂いがかすかに漂ってきた。炊きたての米の甘い湯気。日常の匂い。この匂いが鳳凰領にある限り、麗華は戦える。
「春蘭。五日後の献立、一緒に考えてちょうだい」
「はい、お嬢様」
「暁風殿には護衛の配置をお願いするわ。皇帝が『最小限』と言っても、将軍として最低限の警備は——」
「分かっている。任せろ」
暁風が腕組みを解き、執務室を出て行った。背中が扉の向こうに消える直前、一瞬だけ足が止まった。だが振り返らなかった。
春蘭が卓の上の茶を片付けながら、小声で言った。
「お嬢様。暁風様は——大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ。あの人は強い」
「そうですね。……不器用ですが」
「ええ。不器用ね」
麗華は窓辺に立ち、南の空を見た。
荒地の上に雲が流れている。灰色の大地と、白い雲と、青い空。この風景が変わる日が来るのだろうか。
来なければならない。
そのために——皇帝が来る。
準備が——始まった。




