麗華の書簡
書簡を仕上げたのは、暁風との共同作業から二日後の夜だった。
暁風が書き起こした下書きを元に、麗華が文面を整えた。事実の報告、霊脈再生の必要条件、そして——朝廷との協力の要請。
文面は簡潔だった。感情的な言葉は一切入れなかった。恨み言も皮肉も、かつての廃妃の怒りも。ただ事実と提案だけが、整然と並んでいる。後宮仕込みの筆跡が、氷のように冷静な文面を綴る。一行ごとに墨の濃さが均一で、筆運びに迷いがない。感情を排した分だけ、文字の端正さが際立っていた。
麗華が添えたのは署名だけだ。「鳳麗華」。三文字。筆先に力を込めて書いた。この三文字に、鳳家の百年と、麗華の三年と、これからの全てが乗っている。「鳳」の字の最後の画を引くとき、指先がわずかに震えた。だが文字には震えが出なかった。そこだけは、後宮で鍛えた制御力が機能した。
だが、暁風はその下に自分の書簡を添えた。
暁風の書簡は、麗華の報告とは異なっていた。将軍の武骨な字が、力強く紙の上に並んでいる。筆圧が強く、紙の裏に墨が透けている箇所もある。
——陛下。臣は鳳凰領にてこの三年間、鳳麗華殿の傍で多くのものを見ました。
——荒地化は事実です。霊脈震の周期が迫っていることも事実です。しかし臣が最もお伝えしたいのは、鳳麗華殿が今なおこの国の民のために戦っているという事実です。
——陛下がお下しになった廃妃の詔の後も、麗華殿は一度も民を見捨てませんでした。臣はそれを、この目で見てきました。
——陛下。どうかお越しください。ここに来て、ご自身の目でご覧になってください。
麗華はその書簡を読んで、しばらく黙っていた。灯火の光が紙の上で揺れ、暁風の字が影を落としている。武骨な字だ。角ばっていて、太くて、美しくはない。だが一字一字に迷いがない。剣を振るうように、真っ直ぐに書いている。「見捨てませんでした」の「見」の字が、他の字よりわずかに大きい。力が入ったのだ。この一文字を書くとき、暁風は何を思い出していたのだろう。
「……あなた、こんなことを書くの」
「事実だ」
「事実にしても——」
「嘘は書いていない。俺は嘘が下手だ。知っているだろう」
知っている。この男は嘘がつけない。顔に出る。耳が赤くなる。声が途切れる。だからこそ——この書簡の言葉は、全て本心だ。「鳳麗華殿が今なおこの国の民のために戦っている」。それは暁風が三年間、傍で見てきたことの要約だ。監視役として派遣されたはずの男が、見たものをそのまま書いている。
「ありがとう」
声が掠れた。自分でも気づかぬうちに、喉が詰まっていた。
麗華は書簡を封じた。
封蝋を溶かし、印を押す。鳳家の紋章——翼を広げた鳳凰。赤い蝋が紙の上で固まり、鳳凰の形が浮かび上がった。蝋が冷えていく間の数秒が、妙に長く感じられた。この印を押した瞬間から、もう戻れない。赤い蝋が固まるにつれて、表面に光沢が失われ、鳳凰の翼の細部が浮き出てくる。翼を広げた鳳凰。再び飛び立とうとする鳥。
封じた書簡を暁風に渡した。
手が、微かに震えていた。
「……頼んだわ」
暁風が書簡を受け取った。暁風の手は大きく、温かく、揺るぎなかった。将軍の手。剣を握り、弓を引き、馬を御してきた手。その手が、麗華の書簡を——麗華の未来を——受け取った。書簡が暁風の掌に収まった瞬間、麗華の手の震えが止まった。
「預かった」
暁風はそれ以上何も言わなかった。
執務室を出ていく暁風の背中を、麗華は見送った。鉄紺の軍袍が廊下の闇に溶けていく。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。将軍の足音は、意外と軽い。大きな体に似合わず、廊下の板を踏む音が控えめだ。
扉が閉まった。
一人になった執務室で、麗華は自分の手を見た。まだ微かに震えている。指先に封蝋の赤い残りがこびりついていた。爪の縁に赤い蝋が線のように残り、まるで血のように見えた。
(三年前は、震えなかった)
後宮を去るとき、麗華は一度も手を震わせなかった。「帝都の食卓が寂しくなりませんよう」と言い残して、笑顔で門を出た。
あのときは、怒りと覚悟が手の震えを押さえつけていた。
今は——
(今は、恐れている。自分が捨てた場所に、もう一度手を伸ばすことを)
灯台の炎が揺れた。夜風が窓の隙間から入ってきたのだ。炎が大きく揺らぎ、一瞬消えそうになり、また持ち直した。
麗華は深く息をついた。
書簡は送られる。もう止められない。
あとは——返書を待つだけだ。
翠微が作った干し芋が卓の隅に置いてあった。「夜更かしのお供に」と言って置いていったものだ。芋を薄く切って日干しにしたもので、翠微の実家の農家で作っていた保存食だ。
一つ手に取り、齧った。
素朴な甘みが口に広がった。鳳凰領の芋だ。地養術で育てた芋。砂糖を使わなくても、芋自体が甘い。噛むほどに甘みが増し、干したことで旨味が凝縮されている。舌の上で繊維がほどけ、喉の奥まで甘みが染みる。歯ごたえがあるから、ゆっくり噛む。噛むたびに新しい甘みが滲み出る。素朴で、飾りがなくて、だが確かに甘い。翠微の実家の味だ。
この味が——荒地化で失われる前に。
麗華は干し芋を食べ終え、灯台の火を消した。
暗い執務室の窓から、星が見えた。鳳凰領の夜空は星が多い。帝都よりもずっと多い。星の一つ一つが小さな灯火のように瞬き、闇の中に無数の光が散りばめられている。
この星空の下で——書簡が、帝都に向かっている。
どこかで、暁風の馬が駆けている。書簡を懐に、鉄紺の軍袍を夜風になびかせて。将軍の手に守られた書簡は、帝都までの長い道のりを、星明かりの下で進んでいるはずだ。
麗華は窓を閉めた。干し芋の甘みがまだ口の中に残っている。素朴で、温かくて、翠微らしい味だ。この味を覚えている限り、自分はまだ戦える。
寝台に横になったが、すぐには眠れなかった。天井の梁を見つめ、暁風の書簡の一文を思い出す。「鳳麗華殿は一度も民を見捨てませんでした」。あの言葉が、胸の奥で灯火のように揺れていた。やがて、疲労が意識の縁をぼやかし始めた。鳳凰領の虫の声に包まれて、麗華はようやく浅い眠りに落ちた。




