翠微の決意
翠微が執務室に駆け込んできたのは、暁風が書簡を仕上げた直後だった。
「先生!」
息を切らしている。荒地の端の調査から戻ったばかりらしく、裾に灰色の土がついていた。頬が赤く上気し、額に汗が光っている。足袋が泥で汚れ、三つ編みが走った勢いでほどけかけている。髪の毛先に灰色の土が付着し、汗と混じって額に張りついていた。
「翠微。どうしたの、そんなに慌てて」
「先生が帝都に行くかもしれないって——春蘭姐さんから聞きました」
麗華は春蘭の方を見た。春蘭は澄ました顔で「お嬢様の判断です」と言っただけだった。帳面を胸に抱え、背筋を伸ばして立っている。知らぬ顔を決め込んでいるが、翠微に知らせたのは明らかに春蘭だ。弟子を使って主人を動かす——春蘭らしい手だった。この侍女頭は、主人に必要な言葉を、最も効果的な人物の口から届ける術を心得ている。後宮の三年間で磨かれた技だ。
「翠微。まだ決まったわけでは——」
「先生が行くなら、あたしも行きます」
翠微の声は揺るぎなかった。息は荒いが、目は据わっている。茶色の瞳の奥に、覚悟の光がある。汗が顎を伝い、顎の先から一滴落ちた。
「翠微——」
「あたしは地養術の後継者です。先生が一人で背負う話じゃないです。霊脈再生には、先生の『育てる力』とあたしの『治す力』の両方が必要なんでしょう? だったら、あたしも行きます」
暁風が腕を組んだまま、翠微を見ている。口元がわずかに緩んでいた。
「先生の弟子は立派だな」
翠微の頬がかすかに赤くなった。走ってきたせいで既に赤かったが、さらに赤みが差した。
「暁風さんに褒められるとくすぐったいです」
「事実を言っただけだ」
麗華は翠微を見た。
三年前、冬小麦の畑の前で「土がお腹すかせてます」と言った小さな農家の娘。両手に土をつけたまま、きょとんとした顔で麗華を見上げていた少女。文字もろくに読めず、敬語もおぼつかなく、鳳家の屋敷に来たときは水甕の前で「こんな大きいの見たことない」と目を丸くしていた。鳳家の食事に初めて出された魚の煮つけを見て、「骨が柔らかい!」と感動した顔を覚えている。農家では魚など滅多に食べられなかったのだ。
あの子が——今、師の前に立って「あたしも行きます」と言っている。背が伸びた。顔つきが変わった。少女の丸みが消え、若い女性の輪郭が出始めている。だが目の輝きは変わらない。好奇心と真っ直ぐさは、三年前のままだ。
「翠微。帝都はここと違う。宮廷の人間は、名門の血筋や身分をまず見る。農家出身のあなたが帝都に行けば——」
「知ってます。馬鹿にされるかもしれないってことでしょう?」
翠微は胸を張った。小さな体に、大きな芯がある。
「でもあたしは、馬鹿にされることより、先生を一人で行かせることの方が嫌です」
春蘭が小さく笑った。声には出さないが、口元が緩んでいる。帳面の陰で口元を隠しているが、目が笑っている。
「お嬢様。翠微の言う通りですよ」
「春蘭まで——」
「一人で行くおつもりでしたか? お嬢様」
麗華は口を閉じた。
一人で行くつもりだった。正直に言えば、そうだ。暁風に書簡を託し、返事が来たら一人で帝都に向かう。そう考えていた。いつものように。一人で計画し、一人で実行する。
だが翠微が「あたしも行きます」と言い、暁風が書簡を引き受け、春蘭が後方を守ると言っている。
(一人じゃ——ないのか)
その事実に、改めて気づかされる。何度も言われてきたはずなのに。暁風に「一人で背負うな」と言われ、翠微に「あたしがいるじゃないですか」と言われ、春蘭に「準備を始めましょう」と言われ。それでもまだ、一人で行こうとする自分がいる。
「翠微」
「はい」
「あなたは三年前、『あたしは名門じゃないし、字もろくに読めません。でも土の声は聞こえます。それじゃ駄目ですか?』と言ったわね」
「……覚えてます」
「あのときの答えを、もう一度言うわ。十分よ。十分すぎる」
翠微の目が潤んだ。だが泣かなかった。唇をきゅっと結び、涙を目の縁に留めた。
「先生。あたしは先生に拾われた農家の小娘です。でも今は——先生の術を継ぐ者です」
「ええ。そうよ」
麗華は立ち上がった。
「春蘭。翠微の分も支度を手配して。それから——」
「帝都までの道中の糧食も、あたしが考えます」
翠微が手を挙げた。目の涙はもう乾いていた。声に力が戻っている。
「あたし、旅の保存食なら得意です。干し飯と漬物なら任せてください。農家の知恵ですから」
暁風が口元を微かに緩めた。
「保存食か。軍の糧食よりは旨いものを頼む」
「暁風さんの舌が肥えたのは先生のせいですよ」
「否定はしない」
麗華は三人の顔を見渡した。
暁風。春蘭。翠微。
三年前、廃妃として鳳凰領に戻ったとき、麗華の傍にいたのは春蘭だけだった。
今は——こんなにも、増えている。
(一人で抱え込む、か。もう——その言い訳は、通用しないわね)
麗華は微笑んだ。仮面の笑顔ではない。本物の——少し照れくさい笑顔だった。頬に微かな赤みが差し、目尻が柔らかく下がる。
「では、皆で参りましょう」
翠微が「はい!」と声を上げた。声が執務室に響き、窓の外の鳥が驚いたように飛び立った。暁風が静かに頷き、春蘭が「では支度を」と帳面を開いた。
執務室の窓から、鳳凰領の風が入ってきた。まだ緑の匂いを残す風。麦の甘い香りと、遠くの山茶の青い余韻が混じった風。この風を背に、四人は帝都に向かう準備を始める。
翠微が早速、「干し飯は三日分作ります。梅干も多めに」と指を折って計算を始めた。暁風が「馬の手配は俺がやる」と言い、春蘭が「荷物の目録を作ります」と筆を走らせ始めた。
執務室が動き始めた。一人では動かせなかった歯車が、四人の手で回り始めている。
窓から差し込む午後の光が、四人の姿を照らしていた。机の上に広げた帳面と、翠微が指を折って数える姿と、暁風の力強い筆跡と、春蘭の正確な目録。それぞれが持ち場を見つけ、それぞれの力で動いている。
麗華はその光景を見渡しながら、不意に目頭が熱くなった。三年前、一人で鳳凰領に戻ったあの日。馬車の中で春蘭だけが隣にいた、あの孤独な帰路。あのときの自分に教えてやりたい。三年後には、こんなにも頼もしい仲間がいるのだと。




