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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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暁風の橋

 暁風ぎょうふうが執務室を訪ねたのは、翌朝だった。


 扉を開けて、暁風は足を止めた。


 机の上に丸めた紙が山になっている。灯台の油は切れ、窓からの朝日だけが室内を照らしていた。麗華れいかは机に突っ伏して眠っている。背中が微かに上下し、乱れた黒髪が紙の上に広がっていた。銀のかんざしが外れかけ、髪が肩に崩れている。頬に紙の跡がつき、口元がわずかに開いている。眠っている麗華の顔は、後宮の仮面が完全に外れた素の顔だった。


 暁風は静かに入室した。軍靴の音を殺して歩き、丸めた紙の一つを拾い上げ、開いた。


 ——「陛下に申し上げます」


 途中で途切れている。


 別の紙を開いた。


 ——「鳳凰領ほうおうりょうの現状を報告します。荒地化が」


 これも途中までだ。


 暁風はしばらく紙の山を見つめた。九枚の丸めた紙。九回書き始め、九回止まった。一晩中、この机の前で格闘していたのだ。一人で。誰にも助けを求めず。この女はいつもそうだ。一人で計画し、一人で悩み、一人で決断する。暁風の胸に、鈍い痛みが走った。


 丸めた紙を元に戻した。読んだ痕跡を残さないように、元あった場所に置く。


 厨房に向かい、湯を沸かした。茶葉の量が分からないので、前に春蘭しゅんらんに教わった「親指と人差し指で一摘み」を思い出して入れた。蒸らし時間は——覚えていない。適当に待った。蓋碗がいわんの蓋をずらして香りを嗅いだが、薄いのか濃いのか判別がつかない。鼻を近づけて嗅いでも、茶の匂いがするということしか分からない。


 厨房の隅に粥の残りがあった。冷えている。かまどに火を入れて温め直した。火加減が分からず、強火にしすぎて鍋底がこげかけたが、何とか温まった。椀によそう。見た目は不格好だが、温かい。


 麗華が目を覚ましたのは、茶の香りに誘われてだった。


「……暁風殿」


「起きたか」


 暁風が卓に茶を置いていた。湯気が立っている。隣に温め直した粥の椀もある。粥の表面に焦げの薄い膜が浮いているが、湯気は温かい。


「あなた、お茶を——それに粥まで」


「春蘭に教わった。茶葉の量が分からんから薄いかもしれん。粥は焦がしかけた」


 麗華は身を起こし、頬についた紙の跡を手で擦りながら、茶を一口飲んだ。薄い。だが、温かい。暁風が淹れる茶は渋かったり薄かったり、安定しない。だがいつも温かい。そして温かいということが、今は何よりもありがたかった。粥を一口啜った。焦げた匂いがかすかにあるが、米の甘みは残っている。温かいものが胃に落ちた瞬間、体が小さく震えた。一晩中何も食べずに机に向かっていた体が、温もりを欲していたのだ。


「……ありがとう」


「紙が散らかっている」


「見たの?」


「すまん。一枚だけ」


 沈黙が落ちた。朝の光が窓から差し込み、丸めた紙の山に影を落としている。紙の球が朝日に白く光り、影が長く伸びている。


 暁風が腕を組んだ。考え事のときの癖だ。眉間に皺を寄せ、唇を結び、しばし黙る。それから——短い言葉を、選ぶ。


「俺が橋渡しをしよう」


 麗華は顔を上げた。


「橋渡し?」


「皇帝への書簡。あんたが書けないなら、俺が書く。——俺はまだ、皇帝の将軍だ。密書を送ったこともある」


「それは——」


「あんたの言葉を俺が伝える。俺の言葉も添える。あんたが直接書くよりも、まずは俺を通した方が皇帝も受け入れやすい」


 麗華の指が茶杯を握りしめた。陶器が掌に食い込む感触。温かさが指先に伝わる。


「……それは甘えでは?」


「甘えじゃない」


 暁風の声は静かだが、はっきりしていた。迷いがない。この男の声に迷いが消えるのは、確信を持ったときだけだ。


「甘えじゃない。信頼だ。人に頼ることと甘えることは違う。——あんたが俺に頼るのは、あんたが弱いからじゃない。俺を信じているからだ」


 麗華は暁風を見つめた。


 この男は、いつもこうだ。言葉は少ないが、要所で正確に核心を突く。飾らない言葉が、後宮仕込みの修辞よりもずっと深く刺さる。


「……信頼、ね」


「ああ」


 暁風が立ち上がった。


「あんたが皇帝に伝えたいことを、まとめてくれ。俺がそれを書簡にする。俺の言葉で。それから、あんたが最終的に確認して署名する。——それでいいか」


 麗華は少し考えてから、頷いた。粥の椀を手に取り、もう一口啜った。焦げの匂いが鼻を掠めるが、米の甘みが喉に落ちていく。不器用な味だ。だが、この不器用さが今は心地よい。


「分かったわ。でも——あなたの字、読めるの? 皇帝が」


「……読める。たぶん」


「たぶん?」


「字が汚いのは自覚している」


 麗華は思わず笑った。久しぶりの笑いだった。一晩中書けなかった書簡のことも、九枚の丸めた紙のことも、一瞬だけ忘れた。口元が自然に緩み、目尻に皺が寄った。仮面の笑顔ではない。本物の、不意打ちの笑い。笑いが喉の奥から湧き上がり、押さえきれずに声になった。


 暁風の耳が微かに赤くなったのを、麗華は見逃さなかった。


「では暁風殿。あなたに橋渡しをお願いするわ。皇帝への書簡——あなたの言葉を添えて」


 暁風が頷いた。


「任せろ」


 暁風は書簡用の紙と筆を手に取った。麗華が伝えたい内容を口頭で整理し、暁風がそれを書き留めていく。


 将軍の手は武骨で、字は確かに美しくはない。筆の持ち方からして違う。麗華のように指先で軽く持つのではなく、拳で握るように持っている。だが一画一画が力強く、迷いがなかった。剣を振るうように筆を走らせている。筆圧が強いから、紙の裏に墨が滲む箇所もある。横画は真っ直ぐだが縦画がやや右に傾ぐ。癖のある字だ。だがその癖に、暁風という男の実直さが滲んでいる。


 麗華はその手元を見ながら、思った。


(信頼と甘えは違う——か)


 三年間、一人で全てを背負ってきた。食糧戦略も、外交も、地養術ちようじゅつも。一人で計算し、一人で決断し、一人で実行した。


 それが——少しだけ、変わり始めている。


 暁風の筆が紙の上を走る音が、静かな執務室に響いていた。力強い筆圧が紙を擦る音。それは剣の素振りの音にも似ていた。


 窓の外で、朝の風が麦畑を渡っていく。甘い穂の香りが、窓の隙間から微かに届いた。


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