書き出し
筆を取ったのは、深夜だった。
執務室の灯台に油を足し、白い紙を広げる。上等の紙だ。鳳凰領の楮で漉いたもので、薄いが丈夫で、墨の乗りがいい。紙漉きの職人が一枚一枚手で漉いた紙だ。鳳凰領の清水で漉いた紙は、他の地の紙より白い。指で触れると繊維の細かさが分かる。すべすべしていて、だが墨を受け止める力がある。
帝都への書簡。皇帝——瑛承乾への手紙。
硯に水を注ぎ、墨を磨った。墨を磨る動作は後宮の頃から変わらない。一定の速度で、一定の力で。硯の上を墨が滑る音が、静かな執務室に響く。しゅっ、しゅっ、と規則的な音。墨の匂いが鼻を掠める。後宮の書斎で嗅ぎ慣れた匂いだ。あの頃は毎日、この匂いの中で書簡を書いていた。同じ墨の匂いなのに、あの頃と今とでは意味が違う。
麗華は筆先に墨を含ませた。
(何から書けばいい)
後宮にいた三年間、書簡は何百通も書いた。外交の書状、朝廷への建白書、各地の官吏への指示書。どれも迷わず書けた。適切な書き出し、適切な敬称、適切な言い回しが、反射のように出てきた。
なのに今夜は——一文字も出てこない。
「拝啓」と書いた。すぐに丸めた。
廃妃が皇帝に「拝啓」もないだろう。丁寧すぎて嘘臭い。紙が手の中でくしゃりと潰れる感触。
新しい紙を広げた。
「瑛承乾殿——」
丸めた。名を呼び捨てにする立場でもない。
三枚目。
「陛下に申し上げます——」
筆が止まった。陛下。あの男を「陛下」と呼ぶことの重さ。三年前、廃妃の詔を下した男。あの夜、三日眠れなかったという男。
(私を廃妃にした男だ。あの夜、三日眠れなかったと——後から聞いた。だがそれでも、詔は下された。眠れぬ夜を過ごしたからといって、罪が消えるわけではない)
丸めた。
四枚目。五枚目。六枚目。
机の上に、丸めた紙が積み上がっていく。白い紙の球が、灯火の光を受けて影を落としている。鳳凰領の上等な紙が、こうして無駄になっていく。荒地化で紙の原料も減っているというのに。楮を育てる畑も、やがて灰色に呑まれるのだ。
書き出しが定まらないのは、麗華と皇帝の関係がどこにも定まっていないからだ。
元貴妃。廃妃。食糧で詰ませた敵。鳳家の当主。そして今——助けを求めなければならない相手。
(どの立場で書く? どの顔で?)
七枚目を広げた。
筆先が紙に触れる寸前で、止まった。
麗華の右手が、左手首の内側を無意識に撫でた。怒りを感じたときの癖だ。指先が手首の薄い皮膚を撫で、脈が指に触れる。自分の脈が、思ったより速い。鼓動が指先に伝わり、自分の体が緊張していることを教えてくれる。
(怒っているのか、私は。——誰に?)
皇帝に? 朝廷に? 蘇家に?
いいえ。
(自分に、だ)
助けを求めることが、こんなにも難しい。一人で全てを制御してきた三年間が、「助けてほしい」という五文字を書くことを許さない。あの五文字は、自分の弱さを認める文字だ。後宮で鍛えた強さの全てに反する文字だ。
麗華は筆を置き、窓を開けた。
夜風が入ってきた。初夏の匂いがする。鳳凰領の緑が残る方角から、微かに麦の香りが運ばれてくる。熟れかけの麦の、甘く粉っぽい香り。来月には刈り入れだ。——この麦が、最後の豊作になるかもしれない。麦の穂が風に揺れる音は、ここまでは聞こえない。だが香りは届く。大地がまだ生きている証の匂い。
(この匂いが消える日が来る。荒地化が中心部に達すれば——)
窓を閉めた。
机に戻り、八枚目の紙を広げた。
今度は何も考えず、筆を走らせた。考えるから書けないのだ。考える前に、手を動かす。
——鳳凰領の現状を報告します。荒地化が南部から進行し、中心部への到達まで数年の猶予しかありません。この問題の解決には、朝廷の保有する霊脈に関する古文書が必要です。
書けた。事実の羅列だが、書けた。墨が紙に染みこみ、文字が定着していく。筆が走る音が、静かな部屋に響く。
しかし次の行が書けない。
「つきましては——」
(つきましては、何だ。「助けてください」か。「共に解決しましょう」か。「あなたの力が必要です」か)
どれも、喉に刺さる。
丸めた紙が、九枚目になった。
灯台の油が減っていく。芯が短くなり、炎が小さくなる。夜が深まる。虫の声が窓の外から聞こえる。鳳凰領の夜は虫の声が豊かだ。この声も——いつか消えるのか。鈴虫の高い音が、松虫の低い音に重なり、名も知れぬ虫たちの声が層をなして夜を包んでいる。
麗華は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。梁に張った蜘蛛の巣が、灯火の光で微かに光っている。蜘蛛の巣の糸が一本一本、灯火に照らされて銀色に浮かんでいた。
(後宮にいた頃は、こんなことで迷わなかった。あの頃の私は——何に対しても、すぐに適切な言葉を選べた)
後宮の三年間は戦場だった。言葉の一つ一つが武器であり盾だった。相手の弱みを探り、言質を取り、笑顔のまま追い詰める。
あの技術が——今、使えない。
なぜなら、これは駆け引きではないからだ。
助けを求める手紙。それは麗華が三年間、一度も書いたことのない種類の文書だった。
窓の外で鳥が鳴いた。夜明け前の鳥だ。空がほんの少し、白み始めている。東の空の縁に、灰色がかった白さが滲んでいる。
(一晩かけて——一行も書けなかった)
丸めた紙が九枚。机の上に転がっている。白い紙の球が、朝の薄明かりに照らされて、まるで雪のように見えた。
麗華はため息をつき、新しい紙を広げた。十枚目。
何度目かの白紙を前にして、麗華は筆を置いた。
今夜は——書けない。
だが明日は、書かなければならない。荒地化は待ってくれない。
灯台の火を消し、窓から朝の空を見た。東の空が白く、南の空が灰色に沈んでいる。
白と灰。光と闇。その境界線で、麗華は立ち尽くしていた。
机の上に、翠微が昨日置いていった干し芋が一つ残っていた。手に取り、齧った。素朴な甘みが、一晩中空だった胃に染みた。




