朝廷の選択肢
翌朝、麗華は執務室にこもった。
帳面を新しく一冊開き、朝廷との協力の利害を冷静に書き出していく。
まず、瑛朝にとっての利益。
荒地化が止まれば、国土の大半が農地に復帰する。百年間失われていた穀物の生産力が回復し、鳳凰領に依存する食糧構造が解消される。外交上の弱みも消える。——朝廷にとって、これ以上の利は存在しない。飢饉の不安が消え、民が飢えなくなる。それだけで帝の治世は安泰だ。
次に、鳳凰領にとっての利益。
荒地化の停止。霊脈再生による領地の安全確保。そして秘伝の公開に伴う鳳家の立場の変化——食糧を独占する「脅威」から、国家再建の「功労者」への転換。
麗華は筆を止めた。
(鳳家が食糧を独占する構造が消える。つまり、私の最大の武器が消える)
食糧支配という切り札。三年間、朝廷を相手に戦い抜いてきた最大の武器。それを自ら手放すことになる。
だが、手放さなければ荒地化は止まらない。荒地が鳳凰領を呑み込めば、食糧の独占もなにもない。全てが灰になる。
(つまり、どう転んでも武器は失われる。自ら手放すか、灰に呑まれるか——その違いだけ)
論理は、あまりに明快だった。
感情の入る余地がない。どの角度から分析しても、結論は同じだ。朝廷との共闘以外に道はない。後宮で三年間鍛えた政治的頭脳が、全ての可能性を検討し、全てを棄却し、唯一の道を指し示している。
麗華は筆を擱いた。墨が乾いていく。硯の上の墨汁が縁で薄い膜を張り、使い残しの墨が固まり始めていた。
茶を一口飲んだ。今朝、春蘭が淹れてくれた山茶だ。二煎目で色は薄いが、鳳凰領の茶葉特有の甘い余韻がまだ残っている。この甘みも、荒地化が茶畑を呑み込めば消える。来年の茶は、今年より薄くなるだろう。再来年には——考えたくもない。
窓の外を見た。鳳凰領の中心部はまだ緑だ。畑では麦が穂を揺らし、用水路には清水が流れている。農夫が鍬を振り、子供が畦道で遊んでいる。老婆が軒先で野菜を干し、乾いた大根の白が日差しに映えている。だが南を見れば、灰色の境界線が日に日に近づいている。毎朝、境界線が少しだけ北に動いている。じりじりと、確実に。
「……論理は明快なのよ」
独り言が漏れた。
「誰がどう考えても、答えは一つ。朝廷と手を組む以外にない。食糧支配を手放し、秘伝を公開し、あの連中と——」
声が途切れた。
(あの連中と、同じ食卓につく)
食卓。
麗華にとって食卓は戦場であり、武器であり、そして——人と人を繋ぐ場所でもあった。暁風に茶を出した食卓。翠微に粥を振る舞った食卓。老太爺に秘密の後の粥を差し出した食卓。昨夜、四人で汗をかきながら麻婆豆腐を食べた食卓。食卓は麗華にとって、最も親密な空間だ。
その食卓に、朝廷の人間を招くことになる。
麗華は目を閉じた。
廃妃の夜が蘇る。皇帝の言葉。蘇玉蘭の涙。朝廷の官吏たちの冷たい視線。後宮を去るときの、背中に刺さるような沈黙。回廊を歩く足音が、自分のものだけだった孤独。あの長い回廊。金箔の柱が並ぶ回廊を、一人で歩いた。振り返る者は、一人もいなかった。足音が石の床に反響し、自分の影だけが壁に揺れていた。
あの夜、麗華は笑顔のまま門を出た。「帝都の食卓が寂しくなりませんよう」と言い残して。
あれは宣戦布告だった。そして麗華は三年間、その言葉通りに帝都の食卓を寂しくしてみせた。
(それを——自分から終わりにする、と?)
問題は論理ではない。
論理はとうに答えを出している。
問題は——論理だけでは、心が動かないことだ。
昼餉の時刻が来ても、麗華は帳面の前から動かなかった。
翠微が「先生、お昼です」と呼びに来たが、「もう少し待って」と返した。翠微は何かを言いかけたが、口をつぐんで出ていった。弟子は師の表情を読むことを、この三年で学んでいた。ただ、去り際に「握り飯、ここに置いておきますね」と小さな竹の皮包みを机の端に置いた。鳳凰領の米で握った、塩と梅干の握り飯。包みの隙間から、梅の酸い香りがかすかに漏れた。
帳面には、完璧な利害分析が並んでいる。反論の余地がない。
だが筆を持つ手が、次の一歩——書簡の文面を書くことに、どうしても向かわない。
夕暮れが迫る頃、麗華は帳面を閉じた。机の端の握り飯に手を伸ばした。竹の皮をほどくと、白い飯の上に赤い梅干がちょこんと乗っている。翠微の握り方だ。形がやや不揃いで、角が丸い。一口齧ると、鳳凰領の米の甘みと、梅干の鋭い酸味が舌の上で合わさった。塩加減が絶妙だった。翠微は料理の味つけの才がある。農家仕込みの舌が、素材の味を引き出すことを知っている。
「分かっている」
誰に言うでもなく呟いた。握り飯をもう一口頬張る。米粒が歯に当たり、噛むほどに甘みが増す。
「分かっているのに——」
鳳凰領の夕焼けが、灰色の大地を朱に染めていた。燃えるように赤い空の下で、荒地だけが色を映さない。生きている大地は夕陽を赤銅色に反射するが、灰色の大地は光を吸い込んで返さない。
灰は、燃えない。
だが灰の下に——まだ、種火がある。翠微がそう教えてくれた。大地はまだ息をしている、と。
麗華は窓を閉め、灯台に火を入れた。炎が安定するまで芯を調整する。油が芯に吸い上げられ、炎が大きくなる。灯台の光が机の上を照らし、帳面の墨字が浮かび上がった。
もう一晩、考える。あと一晩だけ。
握り飯は、全部食べた。最後の一つを口に入れたとき、米粒の中に梅干の酸味が沁みていて、唾液が口の中に湧いた。翠微が握ってくれた飯だ。不揃いな形も、塩加減の絶妙さも、この弟子らしい。竹の皮を丁寧に畳み、机の端に置いた。
厨房の方から、春蘭が片付けをする音が聞こえた。食器を洗う水の音。竈の灰を掻き出す音。明日の朝餉の米を研ぐ音。日常の営みが、夜の屋敷に静かに響いている。この音がある限り——まだ、日常は続いている。
灯台の炎が揺れた。風もないのに、ふっと揺らぎ、また元に戻った。




