春蘭の助言
柳春蘭が執務室の扉を叩いたのは、その日の夕刻だった。
「お嬢様。少しよろしいですか」
「春蘭。入って」
春蘭は入室すると、まず卓の上を見た。帳面が開いたまま放置されている。筆が乾いている。茶杯は空。——お嬢様が煮詰まっている証拠だ。十五年仕えてきた春蘭には、机の上の状態だけで主人の精神状態が読める。帳面が閉じてあれば整理がついている。開いたままなら思考が中断している。筆が乾いているなら、長時間手をつけていない。茶杯が空で湯冷ましもないなら、水分すら取っていない。
「お茶を入れ直しますね」
「いいわ、自分でやる」
「お嬢様が淹れると長くなりますから」
春蘭は手際よく茶を淹れた。新しい茶葉ではなく、二煎目の残り葉だ。鳳凰領の茶葉は貴重になりつつある。荒地化が茶畑にも及んでいる。二煎目でも香りが残るのは、鳳凰領の茶葉の質の高さゆえだ。だがその質の高い茶葉も、来年にはどれほど採れるか分からない。春蘭は蓋碗に湯を注ぎ、蓋をずらして蒸らしを調整した。二煎目は蒸らしを短めにするのが春蘭のやり方だ。渋みを出さず、残った甘みだけを引き出す。
茶を一口飲んでから、春蘭は切り出した。
「お嬢様。帝都に書簡を送ることを、まだ迷っていらっしゃいますね」
「……見透かされているわね」
「十五年お仕えしておりますので」
春蘭の声は柔らかいが、目は鋭い。この女は麗華の侍女であり、腹心であり、時に鏡でもある。主人が見たくないものを映して見せる、曇りのない鏡。後宮時代、春蘭のこの目に何度救われたことか。甘い言葉で取り入る者は多かったが、厳しい真実を映す鏡は春蘭だけだった。
春蘭は背筋を伸ばしたまま、麗華を真っ直ぐに見た。
「率直に申し上げてよろしいですか」
「いつだって率直でしょう、あなたは」
「では遠慮なく」
春蘭の目が細くなった。麗華はこの表情を知っている。春蘭が本気で切り込むときの顔だ。口元は穏やかだが、目だけが刃物のように光る。
「お嬢様は今、意地と領民の命を天秤にかけていらっしゃいます」
麗華の指が止まった。茶杯を持ち上げかけた手が、中途半端な位置で固まった。茶の水面が微かに揺れ、杯の縁に波紋が走った。
「……意地、とは随分な言い方ね」
「廃妃にされた屈辱。朝廷を詰ませた矜持。鳳家の当主としての体面。——それらは確かに大切なものです。お嬢様がそれを支えに戦ってこられたことも存じております」
春蘭の声は穏やかだが、刃のように鋭かった。十五年間磨き続けた忠義の刃。主人を傷つけるためではなく、主人を目覚めさせるための刃。一語一語がゆっくりと、確実に、麗華の防壁に突き刺さっていく。
「しかしお嬢様。荒地があと数年で全土を覆う。霊脈震の周期が迫っている。治療法はある。だが実行するには朝廷の力が要る。——この状況で、意地を優先する理由がおありですか」
麗華は茶杯を見つめた。二煎目の茶は色が薄く、琥珀というより薄黄色だ。一煎目の華やかさはないが、静かな甘みが残っている。
「意地とは違う。信頼の問題よ。あの朝廷を——一度私を切り捨てた連中を、もう一度信じることの」
「信じなくてもよいのです」
春蘭の言葉に、麗華は顔を上げた。
「信じる必要はありません。利害が一致するなら、利害で組めばよいのです。お嬢様は誰よりもそれが得意なはずです。食糧で朝廷を動かしたように——今度は霊脈で朝廷を動かせばよい」
麗華はしばらく黙っていた。春蘭の言葉が、胸の中で反響している。二煎目の茶が舌の上で甘みを残すように、春蘭の言葉もゆっくりと染みてくる。
信じなくてもいい。利害で組む。——確かに、麗華が最も得意とする土俵だ。後宮の三年間、信頼など一度も武器にしなかった。利害と情報と駆け引きで、全てを動かしてきた。
「……春蘭」
「はい」
「あなたは時々、私より怖い」
「恐れ入ります」
春蘭は微かに口元を綻ばせた。この女が笑うのは珍しい。普段は澄ました顔で、必要なことだけを必要なだけ言う。その春蘭が笑うのは——主人が正しい方向に向かい始めた証だ。
夕餉の鐘が鳴った。鳳凰領の屋敷に時を告げる鐘だ。銅の余韻が庭に広がり、鳥が一斉に飛び立った。鐘の音が空気を震わせ、窓の格子がかすかに共鳴した。
春蘭が立ち上がり、厨房に向かおうとする。
「春蘭」
「はい」
「今夜は、私が作るわ」
春蘭が振り返った。麗華は帳面を閉じて、立ち上がっていた。
「麻婆豆腐にする。辛いのがいいでしょう。——考え事をするときは、辛いものに限る」
「お嬢様の麻婆豆腐は辛すぎます」
「それくらいでちょうどいいの。頭がすっきりするわ」
麗華は厨房に立った。豆腐を切り、葱を刻み、花椒を潰す。花椒の実を石臼で潰すと、痺れるような香りが指先に移る。鼻腔を突く刺激。この香りは、眠っている感覚を叩き起こす。指が花椒の香りに染まり、しばらくは何を触っても痺れが残る。潰した花椒の粒が石臼の縁に散らばり、黒い粒が赤銅色の石肌の上で小さく弾けていた。
手を動かしていると、考えが整理される。料理は論理だ。手順があり、時間管理があり、素材の特性を把握して最適な処理を選ぶ。後宮の謀略と同じだ。包丁で豆腐を切る。真っ白な四角が、まな板の上に整然と並ぶ。一辺が一寸。均等に。この手の正確さが、食糧戦略を支えてきた。
春蘭の言葉が正しいことは分かっている。意地と領民の命を天秤にかけている——その通りだ。論理は明白で、感情だけが追いつかない。
豆鼓と辣椒の香りが厨房に満ちた。黒い豆鼓の濃厚な旨味と、赤い辣椒の鋭い辛味。二つの香りが混じり合い、厨房の空気が一変する。豆鼓を刻む包丁が、発酵した豆の塊を細かく砕いていく。黒い粒が刃にまとわりつき、濃厚な味噌に似た匂いが立った。
鉄鍋に油を引き、花椒と唐辛子を炒める。痺れるような香りが立ちのぼった。油が弾け、赤い唐辛子が鍋の中で踊る。白い煙が天井に昇り、油煙の中に花椒の痺れる刺激が混じる。
(辛さで涙が出るなら——それは悔し涙ではないことにできる)
麗華は微かに笑って、豆腐を鍋に滑らせた。白い豆腐が赤い辣醤の中に沈み、じゅうと音を立てた。豆腐の表面が赤く染まっていく。
辛い料理を食べる。頭がすっきりする。そして——決める。
麻婆豆腐の香りが屋敷中に広がった。暁風が厨房を覗き、翠微が「いい匂い」と駆けてきた。
四人で食卓を囲む。白飯に麻婆豆腐をかけ、汗をかきながら食べる。
「辛い」暁風が言った。額に汗が浮いている。
「辛すぎます、先生」翠微が水を飲んだ。口の中が痺れて、舌が感覚を失っている。
「お嬢様の麻婆豆腐は毎回辛すぎます」春蘭が眉をひそめた。だが碗の中身は減っている。
麗華は黙って食べた。辛い。確かに辛い。唇が痺れ、額に汗が浮く。花椒の痺れが舌を包み、辣椒の熱が喉を焼く。その奥に、豆鼓の深い旨味と豆腐の柔らかな甘みがある。辛さの向こう側にある味。それに気づけるのは、辛さを乗り越えた者だけだ。
だが——頭は、すっきりしてきた。




