翠微への継承
翠微を呼んだのは、老太爺の意識が戻った翌日の昼過ぎだった。
執務室に入ってきた翠微は、いつもの三つ編みを頭の上にまとめている。修行のときの髪型だ。呼ばれたとき、荒地の端の調査に出ていたらしい。手が土で汚れていた。爪の間にも灰色の土が入り込んでいる。荒地の土だ。黒い生きた土ではなく、灰色の死んだ土。翠微の手が荒地の境界で何をしていたかが、その灰色から読み取れる。靴の泥を払いきれないまま入ってきたのか、執務室の床に小さな土の跡が点々と続いていた。
「先生、お呼びですか」
「座って」
麗華は茶を注いだ。鳳凰領の山茶。かすかな甘みと青い香りがある。最近は茶葉の質が落ちてきている。荒地化が茶畑にまで及び、新芽の育ちが悪い。渋みが増し、あの透き通るような甘みが薄くなっている。それでも、この茶には鳳凰領の山の清水が育てた独特の余韻がある。湯気が白く立ちのぼり、窓から差す午後の光の中を漂った。
翠微は椅子に腰を下ろしたが、背筋が強張っている。麗華の表情から、ただの雑談ではないと察したのだろう。茶杯を受け取る手が、わずかに震えていた。杯の縁に指先が当たり、かちりと小さな音がした。
「翠微。一つ、聞いてもいいかしら」
「はい」
「あなたが初めて霊脈を感じたとき——覚えている?」
翠微の目が一瞬遠くなった。記憶の底を探るように、視線が宙をさまよった。杯を持つ手が止まり、口元まで運びかけた茶が中途で留まった。
「……覚えています。冬小麦の畑で、先生が地養術を使っているのを見ていたとき。土が——声を出したんです。お腹すかせてるって」
「そう。あの日から、もう三年になるわね」
三年。小さな農家の娘が、地養術の後継者候補になるまでの三年。文字を覚え、伝書を読み、術の理論を学び、荒地の前で「治す力」を覚醒させた三年。字を教えたのは春蘭だ。術の理論は麗華が教えた。体力は暁風の武術の稽古でついた。みんなの手が、この少女を育てた。あの頃の翠微は、難しい漢字を見ると眉を寄せて「先生、これなんて読むんですか」と首を傾げた。今は一人で報告書を書く。
麗華は茶杯を両手で包んだ。温かい。陶器の肌ざわりが指先に心地よい。午後の日差しが茶杯の釉薬に反射して、小さな光の点が机の上に落ちた。
「翠微。大事な話があるの」
「はい」
「もし私に何かあったとき——地養術を、継いでほしい」
翠微の茶杯が、かちりと卓に当たった。小さな音が、静かな執務室に響いた。茶が揺れ、杯の縁から一滴こぼれた。
「先生——」
「何かあったとき、という言い方は曖昧ね。正確に言い直すわ。これから先、私は帝都に行くかもしれない。荒地化を止めるために、朝廷と手を組まなければならない。その過程で何が起こるか分からない。だから——万が一のために」
「先生は戻ってきます」
翠微の声は震えていたが、真っ直ぐだった。茶色の瞳が潤んでいるが、涙はこぼれていない。唇を噛んで、涙を押し留めている。
「先生は必ず戻ってきます。でも——」
翠微は唇を噛んだ。噛みしめて、考えて、それから顔を上げた。瞳の奥に、かつての農家の小娘にはなかった光が宿っている。三年間の修行で磨かれた、芯の光。
「——でも。もし先生が戻ってこなくても、あたしが地養術を繋ぎます。必ず」
麗華は微笑んだ。
「ありがとう。でもね、翠微。一つだけ約束して」
「何ですか」
「私の真似をしないで」
翠微が目を丸くした。
「あたしの術は先生から教わったものです。先生の真似をしなくてどうするんですか」
「技術は継承しなさい。でも、やり方は——あなたのやり方で」
麗華は茶を一口飲んだ。渋みが少ない。今年の茶葉は渋みが弱い。荒地化で土壌の養分が薄くなっているのだ。だがその分、甘みが素直に出ている。舌の上で柔らかな甘みが広がり、喉の奥にすうっと抜けていく。欠点が長所に転じることもある。翠微の術も、そうだ。名門の教育を受けていないことが、かえって霊脈への新しいアプローチを生んだ。
「私は秘伝を守ろうとした。一人で抱え込んだ。それが正しいと信じていた。でも——それは間違いだった。秘伝を独り占めにしたことで、この国は百年間苦しんだ」
「先生……」
「あなたの術にしなさい、翠微。土の声が聞こえるあなたの。農家の娘で、名門の血筋なんて持たないあなたの。——その方が、きっと遠くまで届く」
翠微の目に涙が浮かんだ。だが泣かなかった。唇をきゅっと結び、涙を目の縁に留めたまま、深く頭を下げた。三つ編みが肩から滑り落ちた。まとめていた髪が少しほどけ、額に毛先がかかった。
「先生の術を——必ず」
「いいえ」
麗華は穏やかに首を振った。
「あなたの術にしなさい」
翠微が顔を上げた。涙を拭い、唇をきゅっと結んだ。目に決意が灯っている。瞳の奥に、農家の土と鳳家の術が混じり合った、新しい光が見えた。
「——はい。あたしの術にします」
昼下がりの執務室に、山茶の香りが漂っている。師弟は茶を飲み干し、互いの茶杯を卓に置いた。
小さな音が二つ。ほとんど同時に響いた。かちん、かちん。
窓の外では、灰色の大地と緑の畑の境界が、じりじりと動き続けている。だが今日の執務室には、温かい茶の香りと、師弟の間に交わされた約束がある。
鳳家の秘伝は——鳳家だけのものではなくなる日が来る。
その日を恐れるのではなく——その日のために、準備する。
麗華は空になった茶杯を見下ろした。底に残った茶殻が、かすかに緑色を帯びている。鳳凰領の山茶の、最後の一滴。甘い余韻が口の中に長く残った。
翠微が立ち上がり、「もう少し調査に行ってきます」と言った。足取りは来たときより軽い。背筋が伸び、肩が開いている。執務室を出る直前に振り返り、「先生。お茶、美味しかったです」と笑った。三つ編みが揺れた。
翠微が出ていった後、執務室に茶の余韻だけが残った。山茶の青い香りが、日差しの中でゆっくりと薄れていく。麗華は杯の底に残った茶殻を見つめながら、思った。この茶を二人で飲む日が、あと何回あるだろうか。荒地化が茶畑を呑み込む前に、やるべきことがある。
机の上の帳面を引き寄せた。翠微との約束を果たすためにも、まず——朝廷への書簡を、書かなければならない。




