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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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詰んだ女

 机の上に、帳面を広げた。


 地養術ちようじゅつの限界。秘伝の不完全さ。荒地化の進行速度。翠微すいびの治療型の術。老太爺ろうたいやの危篤。そして——朝廷の玄天閣げんてんかくに残された古文書。


 麗華れいかは一つずつ確認していった。冷静に。感情を排して。帳面の上に筆で線を引き、項目を整理していく。後宮で鍛えた分析力が、感情を括弧に入れて事実だけを並べる。筆先が紙の上を走るたびに、かすかな音がする。墨の匂いが指先に移り、紙に染みこんでいく。すずりの縁に溜まった墨が乾きかけて、薄い膜を張っていた。


 まず、地養術の「育成」の力では荒地化を止められない。これは実証済みだ。麗華がどれほど力を注いでも、灰色の大地は応じなかった。十日間の実験で、それは疑いなく確かめられた。


 翠微の「治療」の力には可能性がある。だが翠微一人では、鳳凰領ほうおうりょう全土の荒地を治すには規模が足りない。


 大規模な霊脈れいみゃく再生には、複数の術者が必要だ。そのためには鳳家ほうけの秘伝を公開しなければならない。百年間守り続けてきた秘伝を。


 さらに——霊脈再生の手順は、老太爺の口から途切れてしまった。残りの情報は、帝都ていとの玄天閣にある。


 麗華は筆を置いた。


(つまり、こういうことだ)


 鳳家の秘伝だけでは足りない。翠微の力だけでも足りない。霊脈再生の手順を完成させるには、朝廷が保管する古文書が必要で、大規模に実行するには朝廷の協力が不可欠。


 朝廷との協力。


 あの朝廷との。


 自分を廃妃はいひにした朝廷。食糧を武器に、精密に詰ませた朝廷。麗華が三年間かけて兵糧攻めにしてきた、あの朝廷。


(復讐を——放棄するということだ)


 筆を取り直したが、字が書けなかった。指先が震えている。墨を含んだ筆先が紙の上に点を落とし、小さな染みができた。黒い点が白い紙の上で滲み、小さな花のような形になった。じわりと広がる墨の滲みを、麗華はしばし見つめた。


 窓の外に目をやった。鳳凰領の南側、かつて黄金の穀倉地帯だった方角だ。今はそこに灰色の大地が広がっている。鳳家の先祖が作った荒地。そして今、その荒地が鳳凰領の中心に向かって這い寄ってきている。灰色と黄金色の境界線が、じりじりと動いている。見つめていても動きは見えない。だが毎朝確認するたびに、境界は北に食い込んでいる。


(私はこの荒地を前にして、まだ復讐と自尊心にしがみつくのか)


 だが、感情が追いつかない。


 論理は明白だった。共闘以外に道はない。国を救うには朝廷の力が必要で、朝廷もまた鳳家の力なしには荒地化を止められない。相互依存の構造は、皮肉なほど完璧だった。かつて麗華が食糧で作り上げた「朝廷と鳳家の相互依存」が、今度は霊脈再生という全く別の形で再現されている。


 麗華は帳面を閉じて、両手で顔を覆った。


 食糧という最強の武器を握り、笑顔で権力者を追い詰めた日々。あの爽快な日々が、今は遠い。あの頃の麗華は怒りを燃料にして走り続けることができた。怒りは熱く、鋭く、明確だった。だが今の感情は——複雑で、重く、方向が定まらない。怒りの矛先が朝廷にも自分にも向いていて、どちらを斬ればいいのか分からない。


 窓の外で風が鳴った。灰色の大地を渡る風には、もう穀物の香りがしない。かつてはこの方角から、稲穂の甘い匂いが運ばれてきたものだ。風が窓の格子を鳴らし、紙の端をめくった。


(それでも——)


 麗華は顔を上げた。


(それでも、食べるために。民が食べられるように。この大地をもう一度生き返らせるためには——)


 答えは分かっている。分かっているのに、手が動かない。


 夕餉ゆうげの時刻を告げる鐘が鳴った。麗華は立ち上がらなかった。


 翠微が食事を持ってきた。白飯と漬物と、鶏の清湯チンタン。鳳凰領の地鶏で取った澄んだスープに、葱と生姜が浮いている。湯気が立ちのぼり、鶏の旨味と生姜の温かさが執務室に広がった。碗の中で葱の緑色が鮮やかに映え、スープの表面に金色の油が微かに浮いている。湯気越しに鶏の骨から滲み出た膠質にかわしつの粘りがスープにとろみを与え、匙ですくうと光を帯びてたゆたう。生姜の辛味が鼻腔を刺激し、体が温まることを予感させた。


「先生、食べてください。昨日もほとんど食べてなかったでしょう」


「……ありがとう。置いておいて」


 翠微が出ていった後も、麗華は膳に手をつけなかった。


 清湯の湯気が、ゆっくりと消えていく。香りだけが執務室に残った。鶏の旨味と生姜の温かさ。普段ならこの香りだけで食欲が湧く。だが今は、匙を持つ手が動かない。


 食を武器にしてきた女が、食卓に向かう気力すら失くしている。


 その皮肉に気づいて、麗華はかすかに唇を歪めた。笑おうとして、笑えなかった。


(笑えない冗談ね。食で帝国を揺るがした女が、自分の食卓で詰んでいる)


 帳面の隅に、数字を並べ直した。荒地化の進行速度。鳳凰領中心部に到達するまでの推定日数。霊脈震の周期。


 数字は嘘をつかない。


 猶予は——ない。


 清湯が完全に冷めた頃、麗華はようやく匙を取った。冷えたスープを一口含む。鶏の旨味は冷めても消えない。生姜の辛味が舌の奥を微かに温めた。冷えた体に、小さな火が灯るような感覚。スープが喉を通り、胃に落ちた瞬間、体がほっと力を抜いた。生姜の温もりが、少しずつ体の芯に広がっていく。


 二口目。三口目。白飯を一口含み、清湯と合わせて噛む。米の甘みと鶏の旨味が口の中で合わさり、素朴だが確かな滋味がある。漬物の塩気が舌を引き締め、また清湯に戻る。


 食べることは——降伏ではない。戦い続けるための、最低限の武装だ。


 碗の底が見えた頃、麗華は匙を置いた。窓の外はもう暗い。だが腹の中には、温かいものが収まっている。翠微が運んできた温もりが、体の中で小さな灯火ともしびになっていた。


 空になった碗を見つめた。碗の底に清湯のおりが薄く残っている。鶏の旨味の名残りだ。この碗を洗って、また明日、ここに食事が盛られる。その繰り返しが——日常だ。守るべき日常。


 帳面を再び開いた。数字が並んでいる。冷酷な数字。だが腹に温かいものが入ると、数字の見え方が少しだけ変わる。絶望的な数字の隙間に、わずかな余地が見えてくる。食は力だ。それを誰よりも知っている。


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