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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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暁風の前の涙

 夜明け前に、麗華は老太爺の部屋を出た。


 一晩中、祖父の手を握っていた。老太爺の呼吸は変わらない。浅く、時折途切れ、また微かに続く。体温は低い。脈は弱い。だがまだ——生きている。


 部屋を出る瞬間、振り返った。灯火は全て消えていた。窓から差し込む夜明け前の薄明かりだけが、老太爺の寝顔を照らしている。穏やかな顔だ。苦しんでいないことだけが、せめてもの救いだった。唇がわずかに開き、かすかな寝息が漏れている。生きている証。それだけが、今の麗華を支えている。


 廊下に出た瞬間——暁風がいた。


 壁に背を預け、腕を組んでいる。鉄紺の軍袍ぐんほうは皺だらけで、一晩ここにいたことを物語っている。襟元が乱れ、腰帯が少し緩んでいた。正装にうるさい軍人が身なりを崩しているのは、この男が一度も席を立たなかったことの証だ。


 目が合った。暁風の目は覚醒していた。赤くもない。一晩中、眠らずにここに立っていたのだ。


「……暁風殿。なぜ」


「待っていた」


「一晩中?」


「ああ」


 短い言葉。それだけだった。なぜ待っていたのか。何を待っていたのか。そんな説明は暁風にはできない。ただ——麗華がこの扉から出てくるとき、一人であってほしくないと思った。それだけのことだ。


 麗華は暁風の前に立った。


 朝の薄明かりが廊下に差し込み始めている。柱の影が長く伸び、二人の姿をかすかに照らした。外から鳥の声が聞こえ始めている。夜明けの鳥だ。一日の始まりを告げる声。鳳凰領の朝は鳥の声で始まる。まだ生きている大地の上で、鳥が歌っている。


 後宮で三年間、廃妃の後一年以上、麗華は常に完璧な仮面を纏ってきた。怒りを笑顔の下に隠し、悲しみを冷静さの下に押し込め、弱さを知略の下に覆い隠してきた。それが鳳麗華という女の武装だった。微笑みは鎧。冷静さは盾。知略は剣。


 その全てが——崩れ始めていた。


「暁風殿」


「ああ」


「祖父が——」


 声が震えた。言葉を紡ぐたびに、仮面に亀裂が入る。


「秘伝が——まだ、途中で。第三段階の術式が聞けていない。もし祖父が目を覚まさなかったら——秘伝は永遠に失われる。霊脈再生の鍵が——」


 言葉が続かなかった。


 論理的な懸念を並べているつもりだった。秘伝の継承。情報の欠落。戦略上の問題。そういう話をしているつもりだった。


 だが——喉が詰まった。


「祖父が——死ぬかもしれない」


 声が、ひび割れた。


「私は——」


 唇を噛んだ。泣くまいとしている。後宮で培った制御力が、最後の砦のように感情を押し留めている。歯が唇に食い込み、かすかに血の味がした。鉄の味。


(泣いてはいけない。泣けば崩れる。崩れれば立ち上がれなくなる。私は——鳳家の当主で、鳳凰領の主で、地養術の継承者で、食糧戦略の立案者で——)


 暁風は何も言わなかった。


 ただ——一歩、前に出た。


 麗華との距離が、腕一つ分になった。暁風の体温が届く距離。暁風の息遣いが聞こえる距離。鉄紺の軍袍の匂いが——革と汗と、少しだけ茶の香り。昨夜、麗華のために茶を淹れた名残りだ。


「泣いていい」


 暁風の声は、麗華が聞いたことのないほど穏やかだった。武人の声ではなかった。将軍の命令でもなかった。ただの——一人の男の、不器用な優しさだった。


「俺がいる」


 仮面が——砕けた。


 涙が溢れた。


 一粒。二粒。そして——堰を切ったように。


 麗華は泣いた。声を殺して。だが肩が震え、涙が止まらなかった。


 廃妃にされたときも泣かなかった。帝都を出る馬車の中でも。食糧戦略を組み上げるときも。外交の修羅場でも。趙文昌と対峙したときも。荒地化が始まったときも。老太爺の告白を聞いたときも——一度も泣かなかった女が。


 今、泣いている。


 祖父を失う恐怖。秘伝が途切れる焦り。荒地化を止められないかもしれないという不安。鳳家の罪の重さ。一人で抱え込んできた全てが——涙になって溢れ出た。


 麗華は暁風の胸に——額を押し当てた。


 初めてのことだった。


 誰かに、寄りかかるのは。


 暁風の体は硬かった。鍛え抜かれた軍人の体。だが温かかった。壁に寄りかかるのとは違う温かさ。人の体温。生きている人間の温もり。心臓の鼓動が、額を通じて伝わってくる。暁風の心音は落ち着いていた。一定のリズムで、確かに鳴っている。


 暁風は動かなかった。抱きしめ返すこともしなかった。ただ——立っていた。麗華が寄りかかる支えとして、ただそこに立っていた。


 それは暁風なりの判断だった。抱きしめれば、麗華を女として扱うことになる。今の麗華に必要なのは恋人ではなく、ただ倒れない壁だ。寄りかかっても崩れない、確かな支え。


 麗華は泣き続けた。


 声は出さなかった。だが涙は止まらなかった。暁風の軍袍に、次々と涙の染みが広がっていく。


 時間が止まったような沈黙の中で、朝の光がゆっくりと廊下を照らし始めた。鳥の声が増え、空が白から淡い青に変わっていく。


 やがて——涙が枯れた。


 顔を上げた。暁風の軍袍の胸に、涙の跡が残っている。灰色の染みが、鉄紺の布に滲んでいた。


「……すみません。軍袍を汚してしまいました」


「気にするな」


「暁風殿」


「ああ」


「ありがとう」


 暁風は——何も言わなかった。


 ただ、わずかに頷いた。耳の先が赤くなっていることに、暁風自身は気づいていない。


 朝の光が廊下に差し込み、二人の影を照らした。


 麗華は涙を拭い、背筋を伸ばした。


 泣いた。誰かに寄りかかった。弱さを見せた。


 それは——今までの麗華にはなかったこと。だが不思議と——弱くなった気はしなかった。


 むしろ——少しだけ、楽になっていた。


 肩に載っていた重荷が消えたわけではない。祖父は依然として危篤だ。秘伝は不完全だ。荒地化は進行している。何も解決していない。


 だが——一人で背負う重荷と、誰かが隣にいると知って背負う重荷は、同じ重さでも違う。


「……行きましょう。やるべきことがあります」


「ああ」


 二人は廊下を歩き出した。


 朝が——来ていた。


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