危篤
老太爺は意識を取り戻さなかった。
医者が駆けつけ、脈を取り、瞼を開き、胸に耳を当てた。一通りの診察を終えて——首を横に振った。白髭の老医師の表情は厳しく、眉間の皺が深くなっていた。唇を一度結び、また開く。言葉を選んでいるのだ。
「意識が戻る可能性は——ないとは申しませんが、予断を許しません。このまま眠り続けるか、あるいは——」
「あるいは」
「……覚悟をされたほうがよいかと」
麗華は頷いた。顔に表情はなかった。後宮仕込みの仮面が、この瞬間にも機能している。だがそれは自分を守るためではなく——周囲を動揺させないための仮面だった。唇の力の入れ方、瞼の開き具合、呼吸の深さ。全てを意識的に制御している。それが麗華にできる最後の砦だった。
医者が部屋を出た後、麗華は老太爺の枕元に座った。
祖父の顔は——穏やかだった。苦悶の色はない。眠っているだけのように見える。百年の秘密を語り終え、地養術の核心を伝え終えた——いや、伝え終える前に力尽きた。だが顔には安堵が浮かんでいる。不完全であっても、伝えるべきことを伝えようとした。その意志が、穏やかな眠りを許しているのかもしれない。皺の間に残った涙の跡が、もう乾いていた。
呼吸は浅く、時折途切れるように止まり、また微かに再開する。布団の上下が、かろうじて見える程度の起伏。数えた。息が止まるたびに、心臓が跳ねた。四拍、五拍、六拍——息が途切れる。そして微かに、また始まる。
「祖父様」
呼びかけに反応はない。
麗華は老太爺の手を取った。冷たかった。地養術を使うときに淡い緑に光った指先は、今は白く血の気がない。節くれ立った関節が痛々しく浮き出ている。土に触れてきた年月の証が、この手に刻まれている。爪の間に、うっすらと土の色が残っていた。畑に出なくなって何日も経つのに、土の色だけは消えない。この手が麗華に初めて地養術を教えたのは、麗華が七つのときだった。「土に触れてみろ」と言って、小さな掌を大きな掌で包んで、一緒に土に手を沈めた。あのときの土は温かかった。
(まだ聞きたいことがあるのに)
秘伝の核心。第三段階の術式。繋ぐ力の発動手順。老太爺の知識の中で、最も重要な部分がまだ語られていない。
語られないまま——老太爺の意識は沈んでいった。
不完全な継承。
鳳家の秘伝が、途切れかけている。百年間守り続けた知識の鎖が、最後の一環で千切れようとしている。
春蘭が静かに部屋に入り、茶を置いた。鳳凰領の山茶ではなく、菊の花茶だった。乾燥した白い菊の花が湯の中でゆっくりと開いていく。菊花茶は気を鎮め、目の疲れを和らげる。春蘭の選択だ。言葉にしないが、主人の状態を見て茶の種類を変える。麗華の肩に手を置き、何も言わずに出ていった。春蘭の手の温もりが、肩口から一瞬だけ伝わった。それだけのことが——今の麗華には、思いがけず沁みた。十五年間、数え切れないほど麗華の肩に触れてきた手だ。後宮で疲れた夜も、廃妃の詔が下された朝も、鳳凰領に帰る馬車の中でも——春蘭の手は、いつも同じ温度で麗華に触れた。
翠微が入り口から顔を覗かせた。目が赤い。泣いていたのだ。三つ編みが乱れ、鼻の頭が赤くなっている。袖の端が湿っている。袖で涙を拭った跡だ。
「先生……おじいさまは」
「まだ——ここにいるわ。まだ生きている」
「はい。はい——」
翠微が涙を拭いた。袖で乱暴に拭う仕草は、少女のそれだった。名門の淑女なら絹の手巾で静かに拭うところだが、翠微は麻の袖で鼻まで拭う。それが翠微だ。飾らない。嘘がない。翠微は懐から小さな包みを取り出し、枕元の棚にそっと置いた。干し棗だった。老太爺が好んでいたおやつだ。
「おじいさまが起きたときに、食べてもらおうと思って」
その言葉に、麗華の喉が詰まった。
暁風は部屋の外の廊下にいた。入ってはこなかった。麗華と老太爺の時間を邪魔しないように——ただ、廊下に立っていた。壁に背を預け、腕を組み、微動だにせずに。番兵のように。いや、番兵よりも忠実に。この廊下に誰も近づけまいとするかのように、暁風の存在が壁になっていた。
夜が来た。
灯火の光が老太爺の顔を照らしている。影が揺れるたびに、老太爺の表情が変わって見える。笑っているように見えたり、苦しんでいるように見えたり。
だが実際は——動いていない。穏やかに眠っている。
窓の外から虫の声が聞こえた。夏の夜の虫だ。鳳凰領の夜は虫の声が豊かだ。まだ生きている大地の声が、窓越しに部屋に入ってくる。鈴虫の高い音色と、松虫の低い合唱。生きている大地が奏でる、命の音楽。この音が聞こえるうちは、まだ大丈夫だ。荒地が全てを覆えば、虫の声も消える。
菊花茶は冷めていた。白い菊の花が、杯の底で静かに沈んでいる。花弁が透き通り、湯に淡い黄金色を移している。冷めた菊花茶を一口飲んだ。苦くはない。ほのかに甘い。菊の花の清冽な香りが、鼻腔の奥に残った。
麗華は老太爺の手を握ったまま、夜を過ごした。
「祖父様……まだ、聞きたいことがあるのに」
声は——ほとんど声になっていなかった。唇が動いただけの、掠れた吐息。
百年の知識を持つ最後の人が、意識の向こうに沈んでいく。秘伝の核心は、まだ語られていない。
麗華は老太爺の冷たい手を握り続けた。
手放せなかった。
この手が——幼い頃から地養術を教えてくれた手だ。土に触れ、霊脈に力を注ぎ、鳳凰領の大地を守り続けてきた手。初めて地養術を教わったとき、この手が麗華の小さな手を包み、一緒に土に触れてくれた。「力を注ぐのではない。土と話すのじゃ」——あの日の祖父の声が、耳の奥に蘇る。
その手が、冷たい。
灯火が一つ、消えた。油が尽きたのだ。残った灯火の光だけが、老太爺の部屋を照らしていた。影が濃くなり、部屋の隅が闇に沈んでいく。
麗華は祖父の手を握り、目を閉じた。
泣かなかった。
まだ——泣くわけにはいかない。




