途切れた言葉
翌日、老太爺は術式の具体的な手順を語り始めた。
体力が持つ限りの時間を使って。
「術式の発動には、三つの段階がある」
老太爺の声はかすれていたが、言葉は正確だった。五十年間——いや、生涯をかけて蓄えた知識が、最後の力で紡ぎ出されている。枕元の薬湯は冷めかけていたが、老太爺は口をつけなかった。一口でも飲めば、喉に力が入って咳き込む。それで言葉が途切れるのを恐れているのだ。薬湯の苦い匂いが鼻先を掠めるたびに、老太爺は微かに顔をしかめた。飲みたいのではない。匂いが喉の奥を刺激するのだ。
「第一段階。霊脈の現状把握。断裂した箇所の全てを地図上に記し、再接続の順序を決める。これには霊脈ネットワークの完全な地図が要る」
春蘭が筆を走らせた。一字も漏らすまいと、目が紙から離れない。墨を含んだ筆先が紙の上を滑り、老太爺の言葉が文字に変わっていく。春蘭の筆は速い。後宮で鍛えた速記の技だ。帝都の朝議を記録する書記官と同じ速度で書ける。墨が紙に染みこむ間もなく次の字に移るから、行の始めと終わりで墨の濃淡が変わる。だが一字の狂いもない。
「第二段階。断裂箇所の治療。治す力を持つ者が、断裂箇所の一つ一つを修復する。修復の順序は第一段階で決めた通りに行う。順序を誤ると——百年前の二の舞になりかねぬ」
「順序が重要なのですね」
「霊脈ネットワークは——水路のようなものじゃ。上流から順に修復しなければ、力の流れが偏り、新たな断裂を生む。必ず、上流から下流に向かって修復せねばならぬ」
老太爺の声が一段弱くなった。だが目は開いている。伝えるべきことがある限り、目を閉じないという意志が、痩せた体を支えていた。白い髭の間から漏れる息が浅く、早い。体が言葉を紡ぐ力を絞り出している。額の汗が枕に染みをつくり、白い布に薄灰色の跡が広がっていく。
「上流とは——霊脈の源泉ですか」
「うむ。瑛朝の霊脈の源泉は——」
老太爺が言いかけて、咳き込んだ。激しい咳だった。胸の奥から絞り出すような、乾いた痙攣。体が丸まり、布団が乱れる。春蘭が水を持っていき、老太爺の背を擦った。背骨の突起が春蘭の掌に触れるほど、体は痩せていた。肋骨の一本一本が手のひらに数えられる。着物の上からでも骨の形が分かる。春蘭の手が慎重に、だが確かな圧で背を撫でる。
咳が収まるまで、しばらくかかった。部屋に咳の残響が消え、静寂が戻るまで——長い時間だった。翠微が入り口で唇を噛み、拳を膝の上で握りしめている。目が赤くなっている。泣いてはいないが、泣く一歩手前の顔だ。
「……すまぬ。源泉の場所は——朝廷の古文書に記されておるはず。わしの伝書にはない」
「また、朝廷ですか」
「重要な情報は二つに分けて管理されておった。鳳家の伝書と、朝廷の古文書。片方だけでは完全な術式にならぬようにな。——安全装置じゃ。一家だけで術を行使できぬよう、先祖が仕組んだ」
「百年前の先代が独断で術を使えたのは——」
「両方を持っておったからじゃ。当時は鳳家の当主が朝廷の古文書庫にも出入りできた。今は——もう、その権限は失われておるがの」
老太爺は再び術式の説明を続けた。言葉を紡ぐたびに、体力が削られていくのが目に見えた。顔の血色が白くなり、額に脂汗が浮いている。唇が乾き、皮が薄く剥けている。春蘭が匙で水を唇に運ぶと、微かに舌が動いた。水滴が唇を濡らし、その一滴が老太爺にとってどれほどの力になっているか。
第三段階。修復した霊脈に力を注ぎ、ネットワーク全体を再起動させる。これが「繋ぐ力」の核心であり、育てる力と治す力の両方を同時に発動させる必要がある。
麗華は祖父の言葉を噛みしめながら聞いていた。育てる力と治す力の同時発動。つまり自分と翠微が、息を合わせて術を行使する。一人ではできない。二人でなければ成り立たない。師弟が対であるとは、こういうことだ。
「第三段階の具体的な術式は——」
老太爺が口を開いた瞬間、体が大きく震えた。
目が——焦点を失った。瞳が虚ろになり、半開きの口から言葉の代わりに息だけが漏れた。
「祖父様!」
麗華が寝台に駆け寄った。老太爺の体が力を失い、枕に沈んでいく。痩せた手が布団の上で力なく開いた。指が微かに痙攣し、そして——止まった。
「祖父様! しっかりしてください!」
老太爺の唇が動いた。かすかに。何かを言おうとしている。声にならない声。唇の形だけが、言葉を模っている。
「……玄天閣の……古文書に……」
それだけだった。
最後の力が、その五文字に使い果たされた。
老太爺の目が閉じ、意識が遠のいていった。呼吸は続いている。微かに、浅く。だが意識は——もう、ここにはない。布団の上下動がかろうじて見える程度の起伏。耳を近づけなければ聞こえない呼吸。
麗華は老太爺の手を握った。冷たい。指先に力がない。かつて地養術を使うときに淡い緑に光った手。土に触れれば何でも育つと信じていた、あの手。爪の間に長年染みついた土の色だけが、まだそこにあった。
「祖父様——」
春蘭が医者を呼びに走った。帳面を机に置き、袖をたくし上げて廊下を駆ける。普段は決して走らない春蘭が、足音も気にせず走った。翠微が入り口で立ち尽くしている。目が大きく見開かれ、唇が震えていた。手が口元を覆い、嗚咽を堪えている。
老太爺の声が途切れた。
最も大事な言葉が——まだ、語られていない。
第三段階の具体的な術式。繋ぐ力の発動手順。それが——老太爺の意識と共に、闇の中に沈んでいった。
部屋に残ったのは、薬湯の匂いと、春蘭の帳面に記された不完全な記録だけだった。薬湯はとうに冷め、液面に薄い膜が張っていた。窓から差す光が膜の上で鈍く光り、部屋の沈黙を照らしていた。
麗華は老太爺の手を布団の上に戻し、布団を胸元まで引き上げた。痩せた体が布団の下で小さくなっている。かつて鳳家の当主として堂々と座っていた体が、今は寝台の上で薄い影のようだ。枕元に水差しを置き直し、匙を添えた。目を覚ましたとき、すぐに水が飲めるように。




