弟子の報告
翠微が各地の調査結果を執務室に持ち込んだのは、老太爺の容態が悪化してから三日目だった。
「先生。荒地の境界線の調査結果をまとめました。北部と中部の霊脈脈動記録。それから——境界線で『治す力』を試した場所の経過観察です」
翠微が広げた報告書は、丁寧に整理されていた。表紙に日付と場所が大きく書かれ、中身は図と数字と——翠微にしか書けない感覚的な記述で構成されている。「ここの土は怒っている」「この霊脈は泣いている音がする」という記述は、学術的ではないが、翠微の感覚を正確に伝えている。三年前には自分の名前も満足に書けなかった少女が、今はこれだけの報告書をまとめられるようになった。
数字の計算は危ういところもあった。春蘭が後から赤字で修正を入れた跡がある。足し算の繰り上がりを忘れている箇所が二つ。だが翠微の報告書の価値は数字にはない。霊脈の「声」の記録は、翠微にしか書けない独自のものだ。紙の端に翠微が描いた荒地の境界線の略図があり、線の太さで霊脈の強弱を表している。太い線は脈動が強い箇所、細い線は弱っている箇所。見た目は稚拙だが、一目で状況が掴める。
暁風が執務室に入ってきた。南部の巡回から戻ったところだった。鉄紺の軍袍の裾に灰色の土埃がついている。額にも薄く汗が浮き、荒地の端まで馬を走らせてきたことが窺えた。軍袍の襟元が汗で湿り、首筋に砂が付着していた。
「翠微の報告か」
「はい。暁風殿も聞いてください」
翠微が主要な発見を説明した。荒地の境界線では霊脈がまだ生きていること。「治す力」を使った場所は三日経っても状態が維持されていること。侵食の速度が、治療した区画では明らかに遅くなっていること。
説明しながら翠微は報告書の図を指差し、声に力を込めた。指先に灰色の土が残っている。今朝も境界線に出ていたのだ。朝餉の粥を半分だけ掻き込んで飛び出していったと、春蘭が呆れ顔で教えてくれたのを思い出す。
報告を聞く麗華の目が細くなった。翠微の成長を見ている目だ。三年前、文字もろくに読めなかった少女が、今はデータを取り、仮説を立て、検証結果を報告している。報告書の文字は相変わらず大きくて不揃いだが、内容は的確だった。
暁風が腕を組んだ。
「翠微。——あんたの師匠の弟子は、立派だな」
翠微が目を丸くした。
「え?」
「先生がいない間も、一人で調査を続けて、データを集めて、仮説を立てた。立派だ」
翠微の頬が赤くなった。暁風に褒められることに慣れていないのだ。耳まで赤くなり、三つ編みの先をいじっている。指先が三つ編みの毛先を巻いたりほどいたりして、落ち着かない。
「あ、あたしは——先生の弟子だから。当たり前のことを」
「当たり前のことを当たり前にやるのが、一番難しい」
暁風は翠微に向かって言ったが、その視線は一瞬——麗華に向いた。「一人で抱え込む」師匠にこそ聞かせたい言葉だった。麗華はその視線に気づいたが、気づかないふりをした。
麗華は翠微の報告書に目を通していた。ページを捲るたびに、紙がさらさらと音を立てる。翠微の字はまだ拙い。筆画が太かったり細かったり、大きさが揃わない。だが一字一字に力がこもっている。丁寧に、懸命に書いた文字だ。「泣いている」という字の筆跡が少し滲んでいるのは、書きながら翠微自身が感情を込めたからだろう。
「翠微。ありがとう。あなたの報告は——次の一手を決めるのに、とても大切な情報よ」
「先生——」
「本当に。よくやってくれた」
翠微が深く頭を下げた。三つ編みが肩から前に滑り落ちた。
報告が終わり、翠微が部屋を出た後——暁風はまだ椅子に座っていた。春蘭が黙って茶を淹れ、暁風と麗華の前に置いた。暁風の杯は大きめのもの。春蘭は暁風の好みを把握していて、濃いめの茶を少し冷まして出す。暁風が猫舌であることを、この侍女頭は見抜いていた。
「暁風殿。何か」
「いや。——翠微を見ていて、思ったことがある」
「何を?」
「あんたは一人じゃない。翠微がいる。春蘭がいる。そして——」
暁風が言い淀んだ。右手で左腕を掴む。ぎこちない仕草だ。腕を組むのではなく、片方の腕を掴んでいる。暁風の中で、何かが変わろうとしている。指が二の腕の布地を握りしめ、軍袍の袖に深い皺が入った。
「そして?」
「……俺がいる」
ぎこちない言い方だった。暁風の顔は微動だにしないが、耳の先が赤い。この男は感情が耳に出る。いつもそうだ。無表情を保とうとしているのに、耳だけが正直に赤くなる。
麗華は——不意に、口から言葉が出た。
「私も、あなたに出会えてよかった」
暁風の目が見開かれた。墨色の瞳が大きくなり、まばたきが止まった。
麗華自身も——自分が口にした言葉に少し驚いた。こんな言葉が自分の口から出るとは思わなかった。後宮仕込みの制御力が、一瞬だけ隙を見せた。頬に微かな熱が差し、麗華は視線を窓の外に逸らした。
だが——撤回する気はなかった。
「……すみません。急にこんなことを」
「いや」
暁風が立ち上がった。椅子が音を立てた。古い木の椅子が、将軍の体重に軋む。
「俺は——」
何かを言いかけて、口を閉じた。唇が動いたが、言葉にならなかった。代わりに——小さく頷いた。その頷きに、言葉にならない全てが込められていた。
「茶を淹れてくる」
「また渋くなりますよ」
「……努力する」
暁風が部屋を出た後、麗華は一人で窓の外を見た。
夕暮れの空が橙色に染まっている。遠くで鴉が鳴き、田の向こうの山際に沈む陽が、最後の光を投げかけている。田を渡る風が稲穂を揺らし、金色の波が夕日の赤に染まっていく。厨房からは夕餉の支度の気配が漂い、味噌と焼き魚の匂いが風に混じった。
(「あなたに出会えてよかった」。——何を言っているの、私は)
頬が熱い。
だが——撤回する気は、やはりなかった。
暁風が戻ってきた。二つの茶碗を手にしている。湯気が立ちのぼり、茶の香りが部屋に広がった。鳳凰領の山茶の青い余韻が、夕暮れの空気に溶けていく。
一口飲んだ。
今日は——少しだけ、渋みが和らいでいた。




